年度替りに想う


 あと1週間すると、新しい元号が発表されると言う。
昔のことはともかく、今では元号制度を大切に守り、継続してきた日本の文化は世界でも稀なことであろう。

 どんな元号になるのかは分からないが、力強く未来に希望が持てるような名称が良いと、私は思う。

 5月にはいよいよ新天皇陛下が即位されて、わが国は新しい元首の下で未来を見つめて力強く歩きだす。このことに期待したい。

 ただ、恐れ多くも一言、言わしていただきたいことがある。
それは、宗教学者の島田何とか氏が産経に寄稿していたように、今上天皇が一度も靖国神社を参詣されていないことだ。

 残りの期間で天皇陛下靖国神社へ参詣されることは、あり得ないであろう。
今日の世界でも模範となる様な日本国の礎を築く基になられた人々は、何度かの日本の危機を救うために、自らの命を犠牲にされた方々だ。

 日本の民主化天皇制の存続も、みんなこうした尊い命を犠牲にされた方々の想いの上に築かれている。
象徴天皇の一番の行幸は、こうした方が祭られている靖国神社への参詣なのではなかろうか。

 話はガラッと変わるのだが、私の街でもようやく桜の開花が始まった。
テレビを通して東京や全国に知られた桜の名所には、今や多くの外国人が押し寄せ、これまで日本人の文化として花見を楽しむ人々の気持ちが変わりつつあることが気がかりだ。

 外国の人にも自然を愛し、自然の移ろいに感謝しながら訪れた春の喜びを”花見”という形で表現する日本文化が理解されようとしていることは嬉しい。

 しかし、他人の玄関先で弁当を食べたり、道路に平気でゴミを捨てて行く。日本人であればこうした非常識な態度はとらないのだが、表面的な楽しさや浮かれ気分で日本人が守ってきた秩序や美化精神を踏みにじらないで欲しい。

 その点、田舎に住む私などにはそんな不快感は無縁で暮らせているのだが、田舎には農業実習性としての外国の人が多く働いている。
 近くの「風土記の丘」という桜の名所へ出かけたが、若いベトナムからの女性が数人で花見を楽しんでいた。

 皆さん礼儀正しくて、日本に溶け込んでいるようで、花見のマナーもとても良かって好感がもてた。

 だが、4月からの新しい入国管理法の下、大勢の人々が外国から日本へきて傍若無人に振る舞うとしたらどうなるのだろう。

 何とか福祉大学の留学生が大勢行方不明だというニュースが報じられたのは先週のことだ。仕事にありつけなくて金が無くなれば、罪のない日本人が犠牲に会うことも充分考えられる。

 政府や警察だけを当てにするのではなく、各自治体でも自警団みたいなものをこしらえて目を光らせる必要が出てくるのではなかろうか。

 あれやこれや言いたいことが山ほどあるのでが、私の思うままの気持ちを書いてゆくと、とりとめが無くなる。今回はこのあたりで止めにしておこう。