意識の切り替えができない人


 人間が、子どもから大人へと成長していく過程で、触れ合った人々、影響を受けた人などは、その人のその後の人生に大きな爪痕を残す。

 良いにつけ悪いにつけ、子供と触れ合う大人には大きな責任が付きまとうことが大きい。
 特に、教育関係者の影響力は、大げさに言えばその人の一生に大きく関わることもある。スポーツや芸術で名を成した人、ノーベル賞などの分野でも受賞者が学童の時代に、受け持たれた先生からの一言が、その後の人生を決めたという逸話を耳にしたこともある。

 今日の産経ニュースによると、
いじめ自殺の生徒の父に「お前」  新潟・新発田市教育長が辞職
 という記事が掲載された。

 新発田市立中学の男子生徒がいじめを苦にして自殺した問題で、同市の山田亮一教育長が11日、遺族に不適切な発言をしたとの記事だ。

 この問題では、山田教育長が5日に、父親の自宅に謝罪に訪れた際、「(保護者説明会に)お前も来るか」などと話して、父親が不快感を示していた。

 山田教育長と父親は小学校時代の担任と教え子だったが、父親は「この場ではあり得ないと思った。(自分のことを)軽く見ているのかなと思う」とのコメントを発表していた。
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 学校での先生と子供の関係は、教え導く人と教えられその中で人格を形成していく人と、明らかに立場が違う。そこにはいわゆる師弟関係が出来、それが良い関係であればほとんどの子供は、まともに成長を続け教育の素晴らしさをお互いが実感することになる。

 そして、教え子はいつまでも、自分を導いてくれた先生への畏敬の念を抱き続けるものだ。
 だが、子どもが卒業し、一人前の社会人になれば、恩師としての尊敬の念は持ち続けても、そこには先生と生徒の関係は終了して、人間対人間の関係が作られる。

 中には、社会的責任と影響力が圧倒的に大きい人物に育つ場合もあるだろう。
何が言いたいかというと、先生は生徒の成長に合わせて、相手に対する気持ちの切り替えが必要になるということだ。

 この切り替えができないまま時が過ぎると、この新発田市のような事例が起きるのではなかろうか。
 自殺した生徒の家を謝罪で訪問中、相手の気持ちも考えずに「お前も…」は無いだろう。

 教育委員会のメンバーは、ほとんどの自治体が元教師によって運営されている。教育長も先生上がりだ。
 ともすると、不祥事が起きた場合、仲間内でかばい合う構図が生まれる恐れもある。

 いじめが減らない。撲滅できない要因の一つに、こんな教育界の体質が関係しているのかなと、暗澹たる気持ちになるのは私だけであろうか。