収容所でアジア初の「第九」演奏 ドイツ軍捕虜人道的に遇した収容所長 松江豊寿少将





 いろんな記事に接するたびに、私は自分自身の無知を自覚させられ赤面する。恥ずかしいことに、私はこの松江豊寿氏のことを知らなかったのだ。昨夜、この記事に目を通しながら、熱い想いが体中に広がった。そして、一人でも多くの方々に知っていただきたいと今、パソコンに向かっている。

 記事のタイトルは
収容所でアジア初の「第九」演奏 ドイツ軍捕虜人道的に遇した収容所長 松江豊寿の顕彰碑除幕 故郷会津
 というものである。

 昨夜の産経の記事の引用であるが、軍隊憎しと悪いことばかりを取り上げる反日のマスコミや左派勢力の人たちにも目を通していただきたいものだ。

  引用開始

 第1次世界大戦時、徳島県の収容所所長として、ドイツ軍捕虜を人道的に遇した福島県会津若松市出身の陸軍軍人、松江豊寿(とよひさ、1872~1956)。交流の中でアジア初となる「第九」の演奏がドイツ人により行われるなど、その人道的処遇に改めて光が当たる中,松江を顕彰する記念碑が郷里の会津風雅堂で除幕された。記念碑には「あなたの博愛、寛容、仁慈の精神を忘れない」という捕虜の言葉が刻まれた。(内田優作)

 会津藩士の長男として生まれた松江は陸軍に進み、日清・日露戦争にも従軍、第1次世界大戦が始まった1914年12月、収容所長となる。大戦下、日英連合軍によるドイツ租借地・青島攻略に伴って生じたドイツ軍捕虜約1千人を、同年から5年以上にわたって収容所に迎えた。

 他の収容所で捕虜への暴力もあった中、松江は捕虜に外出や住民との交流を許すなど自由な生活を認めた。捕虜が住民に養鶏や養豚、野菜栽培から建築・設計まで教えたほか、軍楽隊員らには音楽活動も認め、1918年には捕虜によるオーケストラがアジアで初めてベートーベンの交響曲「第九」を演奏した。

 捕虜への人道的な姿勢は当時、国際的にも高く評価されたが、日本国内では長く埋もれたエピソードだった。捕虜は囚人ではなく祖国のために戦った戦士である。松江の胸の奥には、義を貫いて戦いながら賊軍の汚名を着せられた会津藩士の悲哀が、あったと言われる。その姿は平成18年には俳優の松平健さんが松江を演じ、『バルトの楽園』として映画化もされた。

 記念碑は約2メートル。碑文には作家の中村影彦さんが松江を描いた作品「二つの山河」から採った捕虜の言葉が刻まれた。

 「あなたがこれまでに示された私たちに対する博愛と、寛容さ、仁慈の精神を私たちは決して忘れない」

 今年は「第九」初演から百周年を迎え、収容所が置かれた徳島県鳴門市に6月、松江の銅像が設置されるなど、再評価の機運が高まっている。福島においても「松江の事績が出身地の会津若松でなかなか知られていない」として、昨年秋から地元政財界を中心に記念碑を設置する取り組みが始まり、クラウドファンデイングなどで約600万円の寄付金が寄せられ、22日の除幕に至った。

 少将として退役した松江は1922年、若松市長として郷里に戻り、晩年は東京都狛江市で過ごした。除幕式には、孫の行彦さん(72)ら松江の親族も参列した。晩年の松江を狛江市にたびたび訪れたという行彦さんは、「軍人らしく、いつも背筋を伸ばして凛としていた」と面影を振り返った。「敗者に痛みへの理解と人への敬意、それに基づいて収容所を運営する力があったのだと思う。その姿勢は今にも通じる」と話した。

         引用終わり

 ともすると、戦争は”悪”としての面だけが強調されて語られる傾向がある。確かに平和を維持しながら、戦争や紛争に巻き込まれない姿勢を貫くことは大切だ。

 だが、相手があってこそ戦争は起こる。その相手の対応いかんで、やむ言えず立ち上がることもある。そこには祖国を守り、国民の命を守るという絶対的な使命があるからだ。

 この記事は第1次世界大戦時の話であるが、ドイツ人捕虜たちへの博愛、寛容の精神は、時代がどんなに進もうが、相手がどこの国であろうが変わらない立派な行為だと思う。

 この記事にも書かれているように、松江豊寿氏はあの会津若松のご出身だ。天皇を敬いながら最後まで徳川家への忠誠を尽くし、戊辰の戦に敗れた後は寒厳の地、下北半島へ追いやられた。松江氏のご先祖は歯を食いしばりお仲間といつかは、明治政府のお手伝いができると、厳しさに耐え忍んだことだろう。

 その経験がご先祖から受け継がれ、戦での敗者への思いやりや寛容の精神が育まれたのではないかなどと思いながら、昔へ想いを馳せた。