歴史の見方にももっと多様性を
お盆が終わり、故郷へ帰省した人たちは、14,15日と一斉に故郷を後にして、日ごろの生活の本拠地へと引き返した。
田舎に住む私にとっては、ようやく静かな日ごろが返ってきたと、安どしているところである。
そして、その論調は決まっている。
日本が起こした戦争により、関係する外国へ多大な迷惑をかけた。日本国民に対しても大きな犠牲を強いり、そのために家族の崩壊、離散や未だに戦争の傷跡を残す人を探し出し、戦争を行ったことを悔いる。
そんな中で今日の
[阿比留瑠比の極言御免] 歴史の見方にももっと多様 性を
とのタイトルで語られたコラムは、私の思いにかなりオーバー・ラップする意見だと目を集中させた。
全文引用させていただこう。
日本を一方的に断罪した極東国際軍事裁判をめぐっては、インドのパール判事が被告全員を無罪とする意見書を提出したことが良く知られているが、オランダのレ―リンク判事も広田弘毅元首相や東郷茂徳元外相ら5人を無罪だと主張している。
そのレ―リンク氏が、日本滞在中に書いた日記や書簡の内容が明らかになったという三井美奈記者の記事が、15日付で本紙(産経新聞)朝刊に掲載されていた。詳細は元記事を参考にしてもらいたいが、こんなことを日記に記しているという。
「日本の歴史や国際法の研究を進め、多数派の意見だからといって絞首刑を宣告すべきではないという考え方に至った」
いまだに東京裁判を単純かつ安易に正当化するような一部新聞や野党議員に、爪の垢を煎じて飲ませたいところである。ともあれ、日本滞在中のレ―リンク氏と交流があり、その日本観に影響を与えたのが児童文学『ビルマの竪琴』の作者であるドイツ文学者、竹山道雄氏だった。
竹山氏の著書『昭和の精神史』の中で、竹山氏がレ―リンク氏に、昭和23年11月に出された東京裁判の判決の非合理性を訴える場面がある。レ―リンク氏はこう答えている。
「今は人々が感情的になっているが、やがて冷静にかえったら、より正しく判断することが出来るようになるだろう」
これは次のパール氏の言葉と基本的に認識が通じている。
「時が熱狂と偏見をとをやわらげた暁には(中略)過去の賞罰の多くにそのところを変えることを要求するだろう」
竹山氏の著書『ヨーロッパの旅』によると、それから8年後の昭和31年、オランダの自宅を訪ねてきた竹山氏に、レ―リンク氏はこう明言した。
「あの判決は誤りだった。もしあの裁判が今行われれば、あのようには考えられないだろう。俘虜(ふりょ)虐待などの通常の戦争犯罪は別として、政策の結果として起こったことに対しては、ああいう結論にならなっただろう。おおむねインドのパールのように考えただろう」
また、自分たち判事団は偏った情報しかもっていなかったと振り返り、このように反省している。
「連合国側には共産主義の脅威ということは念頭になかった。(中略)外部からの挑戦-それへの反応ということについて、はなはだしい見落としがあった。その後まもなく中国が赤化したのを見て、そうだったのか、それほどまでにも脅威が迫っていたのかとおどろき、この点は全く考え直されるようになった」
「あのときの判事たちは法律家ではあっても、国際関係に通じているひとびとではなかった」
興味深いのは、レーニンク氏が東条英機元首相を有罪と判断したものの、同時に高く評価していたことである。特にキ―ナン主席検事に対し、東条氏が大東亜戦争は自衛戦争であることや、天皇陛下には責任が無いことを堂々と論理的に主張した場面には瞠目し、舌を巻いて褒めていたという。竹山氏によると、日本滞在中、何度もこうつぶやいていた。
「Outstanding man!(傑出した男だ)!」
引用終わり
しっかりと日本及び日本人を見ていた東京裁判の関係者は、インドのパール判事があまりにも有名だが、このレ―リンク氏もパール判事と同等に日本を理解し、大東亜戦争が何だったのか、しっかりとした目で見ていたのだと思うと、なんだか、とてもホッとする。
氏は一言の弁明をもせず静かに絞首台の露と消えた。
今の経済的繁栄の礎になったこの方々を、A級戦犯だといまだにそしり続ける世論というのは一体何なのだろう。
戦後70年以上が経過しても、まだ、日本国首相が靖国神社へ参詣することに文句をつける人が多く居る。
朝日、毎日、東京などの新聞や左翼テレビが、挙げ足とりのように首相の靖国参詣を非難することは、自分たちのジャーナリズム界での存在をアピールするための一種の病気だと思う。こいつらのことは無視してそろそろ国民を代表して8月15日に首相自らが参詣に出かけやすい環境作りを、国民は率先して行うべきではなかろうか。