左派のどこが「リベラル」か  阿比留瑠比の極言御免より


いきなり、引用からは入ることにする。
   引用開始 
[阿比留瑠比の極言御免] 左派のどこが「リベラル」か
 政治記事を書くうえで、ずっと違和感を覚え、どうしてそう言うのか意味不明なので極力、使わないようにしてきた言葉がある。それは「リベラル」である。本来は「自由を重んじること」や「自由主義的な様」のことのはずだが、政界では明確に違う意味で使用されている。

 ■ 迷える左翼の新看板
「リベラル勢力結集の要として頑張りたい」
「リベラル勢力の再結集をはかろう」
 これは、社民党福島瑞穂元党首が昔から、好んで口にする言い回しである。だが、果たして福島氏は本当に「リベラル」なのであろうか。むしろ端的に言えば「左翼」「左派」というのが本当だろう。

 いくら当人がリベラルを自称しているからと言って、左翼のことをリベラルと言い換えるのは、新聞表記上の一種のごまかしではないかと思ってきた。

 こうした疑問について、ちょうど徳島文理大の八幡和郎教授が26日に新著『「立憲民主党」「朝日新聞」という名の”偽リベラル”』を出版するというので聞いてみた。八幡氏の解説は明快である。

 「左翼であることをかっては胸を張って訴えていた人たちが、冷戦が終結したことで行き場を失い、今は「リベラル」という新しい看板を掲げている」

 少し古い話になるが、現在は立憲民主党国対委員長辻元清美氏が、旧社会民主党出身の村山富市元首相にインタビューした内容をまとめた『そうじゃのう…』という本に、こんな一節がある。自民党の変化について語る部分である。

「加藤(紘一)幹事長など自社さ派のメンバーをみれば、それはリベラルじゃね。(中略9やっぱり中曽根さん(康弘元首相)とかああいう古い体質からは抜け出しとる」

 この本の中で村山氏は「社会民主主義の流れを組む、リベラルを結集した柱があってもいい」とも述べているが、社会民主主義と本来のリベラル(自由主義的)は明らかに矛盾している。これは、やはり左派のことだろう。

 ■ 矛盾した言葉で偽装

 リベラルとは、左派が自らを偽装する言葉であるようだ。自民党山崎拓・元副総裁は「党にリベラルがいなくなった」と嘆いていたが、左派がいる方がおかしかったのではないか。

 大和大の岩田温専任講師の新著『「リベラル」という病 奇怪すぎる日本型反知性主義』をひもとくと、さらび辛辣だった。

 「日本でリベラルを自称する人たちには、顕著な特徴がある。それは、現実を見つめようとせず、愚かな観念論に固執することだ」

 「日本列島の中で『リベラル』たちは、他の世界のリベラルとは異なる独自の退化を続けた。(中略)特殊な退化を続ける日本の『リベラル』をガラパゴス左翼と呼ぶことにしたい」

 ■ 若者は見抜いている

 もっとも、若い世代のリベラル観はまた異なるようである。1月14日付本紙『新聞に喝!』蘭で、ジャーナリストの門田隆将氏も紹介していた興味深いデータがある。読売新聞と早大の昨年夏の共同調査によると、18~29歳の若者は日本維新の会自民党の方がリベラルで、共産党公明党は保守だと考えているのだという。

 憲法改正に前向きで柔軟な維新や自民がリベラルで、戦後体制を維持しょうとする共産や公明が保守という見方は、かなり納得ができる。ただ、いずれにしても。リベラルという用語は曖昧で難しい。今後も、出来るだけ紙面で使わないように心がけたい。(論説委員兼政治部編集委員

     (引用終わり)

 この「リベラル」という言葉、私も若いころは良く使っていた。ただし、使い方は今の立憲などがつく意味とは、かなり違っていた。
 父親がかなり頑固な保守主義者で、その父親に反発する意味もあって、私なりの柔軟な発想や現実を見つめる若者独特の青臭さが、リベラリズムに一種の憧れに近い考え方を持っていたのだと、今は思う。

 いずれにしても、私が考える「リベラル」は自由主義、自由な発想、柔軟な思考というものだった。
 だから、いくら贔屓の政党、ひいきの政治家でも、自分の考え方や世の中の在り方で、疑問を持つと直接その疑問をぶっつける。
 少し、分別の匂いが漂い始める年齢に達すると、理想だけでは現実は解決しない。現実を見据えながら考えを構築していくことが、いかに大切かなどを学ぶにつれ、私の頭から「リベラル」という言葉は消えていった。

 ところが、今ではわが国で、以前革新だとか、左翼だとか言われた連中が、盛んに口にする言葉に変容した。
 この阿比留氏の記事にもあるように、東西の冷戦が終わり、左派がよりどころにした”マルクス・レーニン主義”が現実世界では通用しないことが立証された。

 もちろん、中国のように、一党独裁を続け国民の自由な考えや発想を許さない政治体制を維持できれば、社会主義は多くの国民を犠牲にすることで成り立つのだろう。
 それが日本人の意識、国情に合うかどうかは、共産党などの暴力革命を党是とする一派を除けば、誰が考えても同じ意見に集約されると思う。

 そこで、左派は”隠れ蓑”的に、やたらと「リベラル」という言葉にすり替えて、さも、国民をいじめる与党に代わり、リベラル勢力こそが正義の味方だと口にするのではないか。

 リベラルの本来の意味など無視して、自分たちこそがリベラルだと公言する、野党の一派の姿勢を想うと、片腹痛い思いがしてくる。
若者が、共産党公明党が保守であるという想いにかられることに、かなり同調したくなるのだ。
 今、国政で働き方改革だ。文科省の岩盤規制に穴を開けようと懸命なのは、自民党や維新など、ともすると保守と言われる政党だ。
若者たちは、このへんを鋭く感じ取ったということだろう。

憲法にしても同じことが言える。リベラルといわれる一派からは憲法改正の”け”の字も出ない。70年にも及ぶ長い年月が過ぎて行く間には、今の憲法では時代に取り残される実情が山とあるというのは当たり前のことだ。
 ところが、一字一句たりとも変えることは許さないというのであれば、国家の衰退は免れない。
 どこが「リベラル」だと、苦々しい気持ちになるばかりだ。