不可解な言葉、こんな人に国政は任せられない」


 産経ニュース 1月19日より
立憲民主・山尾志桜里氏の「立憲的改憲」って何だ  「空理空論の言葉遊び、無責任発言」の批判も
 という記事が目に留まった。
 読んでいくうちに、昨日の喜びの気持ちが吹っ飛び、現実に呼び戻された(?)気持ちが頭の中を支配する。
 相も変わらず、反日野党というのは、反対のための反対を繰り返す。その主張には自分が国民を代表しているという自覚、責任などが見えてこない。
 こんな人物が、国会で空理空論を振り回すことが許されていることに、唖然としてしまう。
 少しばかり、この記事を引用させてもらおう。

   引用開始

 立憲民主党山尾志桜里衆院議員が新年早々、「立憲的改憲」との立場で発信を強めている。民放番組で、日本が行使できる自衛権を「個別的自衛権」に限定し、憲法に明記すべきだと訴えたのだ。集団的自衛権の限定的行使を認める「安全保障法制」を否定する内容だが、北朝鮮の脅威が増すなか、日本と東アジアの平和と安定を確保できるのか。(夕刊フジ

憲法自衛権の存在を可視化して、統制をがんじがらめにかけていくことが大事だ」
 山尾氏は4日のテレビ朝日系「羽鳥慎一モーニングショー」に出演し、こう語った。ダブル不倫疑惑から、吹っ切れたような表情だった。

 山尾氏が「可視化」を主張する自衛権は、日本が武力攻撃を受けた際にできる「個別的自衛権」のことだ。
「(憲法に)専守防衛の精神を具体的に書き込む。自衛権を制約・統制し、平和主義の価値をよみがえらせる」とも語った。

                   中略

 番組では山尾氏の主張を「護憲的改憲案」と理解困難な紹介をしていたが、もともとの「立憲的改憲」とは、14年閣議決定前の政府の憲法解釈にさかのぼり、集団的自衛権を行使できないように、自衛権の制約を明文化する考えのようだ。

 実際、山尾氏は番組で、集団的自衛権の行使に関し「わが国に対する武力攻撃を前提としていない以上、認めない」と否定し、「『わが国に対する』などの解釈を柔軟にすることで、個別的自衛権で対応できる」と話した。

 立憲民主党などの野党は、安保法制の成立により、「自衛隊が地球の裏側まで行って、戦争が出来る」と反発する。

 しかし、日本が攻撃を受けていない場合の武力行使には、「わが国の存立」が脅かされる明白な危険があるなどの「第3要件」が課されている。政府も他国防衛のための集団的自衛権は行使できないという立場を維持しており、地球の裏側で戦争できるという主張は、非現実的だ。

 集団的自衛権の限定的行使すら認めず、「専守防衛」を強調する山尾氏の主張を、どう受け止めるべきか。

 評論家の八幡和郎氏は「空理空論の言葉遊びだ」といい、続けた。

北朝鮮が国際社会の警告を無視し、『核ミサイル』を実戦配備しようとしている国際情勢にそぐわず、妥当性はない。個別的自衛権にこだわって『専守防衛』に固執するなら、現在よりはるかに過大な防衛力が不可欠になる。北朝鮮を抑止する核武装を訴えるわけでもなく、『殺される方がマシ』と割り切るわけでもない。無責任な発言は慎むべきではないか」

      ( 引用終わり)

 平和安保法制に未だに反対する野党の論理はこうしたものだろうと、思いながら読み進めた。
 山尾氏の頭の中は、先ず、”集団的自衛権を認めない”発想があり、全ての言い分はこれからスタートするのではないか。

 日々変わる世界情勢などを前提に考えれば、おのずと答えは一つしかないと、気がつくはずだ。
 しかし、それでは与党の言い分を認め、自分たちの主張の根拠が崩れる。私には、そこで、訳の分からない”言葉遊び”へと突き進む、そんな構図が見えてくるのだ。
 それで、この人たちは、大衆を扇動し、ごまかしてきた。
ところが、ネット社会の申し子といえる、若者たちは「そんな地球の裏側まで行って戦争をする」なんてことが、あるわけがないではないか。と、これらの反日野党を突き放す。

 つまり、現実を見すえて、それに真面目に対応しようと考えれば、山尾議員のような発想は起こらない。
 頭から、国民の幸せ、安全などは飛んでいて、反対のためにどのような論理を組み立てようかと、焦点をそこに集めるからこのようなばかばかしい発言になるのではないかと思った。
 本当に、ばかばかしいので、このあたりで…。