まるで新興宗教の信者だ?

私は自分が住み暮らすこの国の将来が、いつも心配になる。
老い先があまり多く残されているとは思えない私自身は、どうでも良いのだが、子どもや孫の時代に厳しい状況に置かれた日本を想像すると、安心して人生の幕を下ろせない心境になる。
 
 私の周りを見つめても、皆さんいつも大らかでこの世の平和を楽しんでおられる。
しかし、これまでの人類の歴史をひも解くと、一つの国の運命なんて他国の横暴で、いとも簡単に崩れさる。
 そして、一度滅んだ国を、基の安定した豊かな平和国家に戻すことの難しさも、歴史が証明している。
 
 司馬遼太郎氏の著作群などでは、そのことが詳しく書かれ、特に「坂の上の雲」などに目を通すと、ほんの僅か前までの武家政治の時代を変えて、欧米列強に物心両面で著しく劣る我が国が、大国ロシアを相手によくぞ互角の戦いが出来たことと、当時の気骨溢れる先人の皆さまに頭が下がる想いで胸が一杯になる。
 
 で、話ががらっと変わるのだが、
 
 最近、中国政府が”南京事件”の記念館をリニューアルしたとのニュースが流れた。私がそのことに関連させて
「この記念館を造ったらどうかと、中国政府の高官に話を持ちかけたのは、当時の社会党の田辺誠氏だった。あったかどうかも解らない”南京大虐殺”について、当時の中国は毛沢東以下、それで我が国を糾弾するということはなかったのに、社会党の連中はつまらないことをしたものだ」
と、話題にしたら、知人の一人が
「あったことは間違いないですよ。いろんな書物にもかかれてある」
と、反論してきた。
私は「どの本のことですか?」
相手は「本田勝一の『中国の旅』ですよ。私はあれの隅々まで目を通しました」
私「あの本は、中国政府が証人として指名した中国人の話を、裏付けも検証もなしで、書いた本。内容はほとんど信用できないものですよ」
知人「そんなことは無い。日本軍は絶対にあれに書かれていたような、残虐なことをしている」
私「その証拠は出ているのですか?」
知人「日本軍の兵士からいたぶられた本人の証言だから、間違いないですよ」
私「それにしても、当時20万人弱の南京で30万人が殺されたというのは、どう考えてもおかしな話ですよ」
知人「自分の友人のお父さんが、兵士で当時、南京を攻略した部隊に居た。この人も数え切れない死体が転がっていたと、自分に話してくれた」
と、このような論争になった。
 
 結局、家内がまた始まったと、私にストップをかけて、その場は治まったが、この人の話を聞いていると、中国の旅という本は、あとでいろいろ矛盾や掲載された写真などが出たらめで、信用できないものとの結論が出たいわくつきのものだ。
 
 今回の記念館のリニューアルでは、本田勝一氏の肖像写真などが外されたとのニュースも流れた。中国政府としても信ぴょう性という観点から、外した方が良いと判断したのではなかろうか。
 
 話を元に戻さねばならないが、私と論争した知人は、バリバリの憲法9条の信奉者だ。この手合いの話を聞いていると、事実に基づいた話というのが出来にくい。
ほとんどが、感情論で、根拠もなしに、この人が言ったのだから間違いないなどの結論で迫ってくる。
 まるで、今の安倍政権下での森友加計問題批判と、重なるのだ。
 
 そして、最後のセリフがいつも同じだ。
「戦争は絶対にしてはいけない。この世に戦争ほどの悪はない」
 
私もひと事言いたいと
「それでも敵国が攻めて来て、我々の、あなたも含めて、孫や子どもが攻めてきた敵国の兵士に殺されそうになったときも、戦争はいけないと叫ぶのですか?」
 知人「・・・・・・」
 
 
 私は話に区切りをつけたあとで、いつも同じ想いにかられる。
それは、まさに新興宗教の信者が、理屈抜きで”9条という教祖”を称える姿勢だ。
 
そして、この人たちに共通するのが、60代の団塊世代より前後の年齢になっていること。つまり、日教組の全盛期に洗脳された人々で、今、沖縄の辺野古問題で基地移設の反対行動をとっている人たちと同じなんだなあと。
 
 さて、宗教的に洗脳された人々に目を覚ましてもらうほどの、力は私には残っていない。
 ここは、さわらぬ神を決め込むことが最良の方法のようである。
しかし、我が国の将来を想うと、また眠れそうにない夜がやって来そうだなあ…。