楽しい仲間

 紅葉の様子を探りに飯田高原まで出かけた。標高が1000メートルなのでさぞかし山々は赤や黄色に彩られているのではと、期待して出かけたのだがまだ木々は青々とした元気のよさそうな葉っぱを付けている。
 先日から来ていた人は、昨日の大雨が去ったのでトレッキングに出かけて、紅葉を楽しむつもりだったが、山の中腹に出来たくぼみに大量の雨水がたまり大きな池が出来て、行く手を阻まれたと、残念がっていた。
 
 私はもう山歩きが出えきないので、先週は会えなかった懇意な友人と、久しぶりに会食を楽しむ。
この友人とは、アルコールが入るとすぐさま政治、思想、歴史感などの話になって論争に発展する。。
家内は、日ごろ冷静な(?)私がこのような話題になると、熱くなって声が大きくなるのを嫌い、別の話題へと懸命にかじ取りを行う。
 しかし、日ごろ政治や思想の話題を極力避けている私としては、日ごろの欲求不満(?)を解消したいと、ちっとやそっとの説得には応じない。
 
 バカな私でも、こんな論争は自然と相手を選ぶ。
この友人は、フオーク系のミュージシャンで、処世の経験などからも筋の通った本物の平和主義者(但し、私はこんな人を”人類平和教”の熱心すぎる信者と呼んでいる)なのだ。
 
 したがって、国の防衛は武力でしか全うできないと、常々信じてやまない私とは考え方が真逆で、付き合い始めて20年近いのだが合意に至ったことは無い。
 そのことは両人とも分かっていて、結論には到達できない論争を楽しむ間柄と言えるのかも知れない。だから、最後は握手しながら「おやすみなさい」と挨拶を交わしてお互いの家に帰る。
 
 昨夜は、当然今度の解散における総選挙のことで、丁々発止とやり合った。
特に白熱したのが、憲法改正についてであった。
 
 民主主義の先進各国では、ドイツの59回を筆頭に、フランス27回、カナダ19回、イタリア16回、アメリカ6回と明文化された憲法を持つ国では、何度も世界情勢や時代の変化に応じ改正を繰り返している。
 それぞれの国は、国民がそう望み、討議を重ねて、その都度時代にあった憲法の改正を行ってきた。
 これこそ、成熟した民主主義社会の姿なのではなかろうか。
 
 それに比べ我が国の場合は、70年の時を経てもただの一度も改正の発議さえ行われたことがない。
 しかも、現行憲法の成り立ちを考えると、明らかにアメリカ国家の意思が盛り込まれた憲法で、日本国民を代表した政治家たちの検討は僅かな日数でしか論議されていない。
 その挙句、世界でも類を見ないお粗末な国家の基本法が誕生した。
 世界の国々と比較しても、国民の生命や財産を守ることが出来ないこのような憲法を崇める国は稀であろう。
 
 反日左派の政治家や、学者、マスメディア、深く考えもせずにマスコミなどの誘導に弱い民衆の一部は、我が国の憲法の成り立ちに何の疑問も持たず、立憲主義を唱える。
 この態度は明らかに可笑しいのではないか。
自国の先行き、自分の孫子など子孫が安心して平和な暮らしが享受できる国を築きあげることは、私たち大人に課された大きな責任だと思う。
 ところが、左派の連中相手に憲法の改正を唱えれば、ヒステリックな否定論が返ってくる。そこでは理性的な論争も出来ない。
 
 そんなことを考えながらの家路であった。私は、考え方が大きく違う仲間と息の長い付き合いが出来るというのは、平和な日本に生まれ自由な意思が尊重される世の中が今の時点では、しっかり保障された民主主義社会で暮らせているからだと嬉しい気持ちで車を走らせた。