最近思うこと

 一昨年他界した叔母の3回忌を来週行うことになり、家内はその準備で大忙しだ。
無信心というか、宗教的なものが嫌いな私は、このような法要が行われたり、近づいたりするたび頭が痛くなる。
 
 世の中には宗教を頼りにする人々は多いし、その方々の信仰を否定するつもりはさらさら無い。
 しかし、仏教に限らず、他所の国で信者の多い宗教も、それが原因で紛争が起こったり、他宗教を排斥したりする現実を知ると、人々の心の悩みを救うはずの宗教に、大きな疑問を持ってしまう。
 
 今、我が国は長寿の反動として、国家予算を脅かすような福祉予算確保の検討に、為政者は頭を悩ましている。
 その挙句、税収を増やすために個人ナンバーなどの導入が実現化されたり、相続税などの変更を行い何とか税収アップの努力をしているところだ。
 しかし、医者や宗教関係に対する、税の優遇処置に手をつける気配は全く無い。
どちらも政治家にとっては大きな票田であるため、優遇処置を見直そうなんて言おうものなら、次の選挙で大きなしっぺ返しを受けるためなのか。
 
 宗教法人の収入や医療関係者などから優遇処置を外せば、国の税収は大幅にアップするのではないか。
 
 宗教は人の心を救うために存在するなどという人も居るが、救いを求める人からお布施と称して金品を修めさせる仕組みは私には理解できない。
 宗教家の方は、「私はいくらいくら納めなさいなどとは、一度も言ったことは無い。ご本人の厚い信仰心からのことだ」と、言い訳が帰って来そうだが、「当方ではいただくわけにはまいりません」と返したという話は聞いたことが無い。
 
 今の寺院を守って行く制度というか、形は恐らく江戸時代あたりに確立されたものであろう。檀家制度などはうまく庶民の信仰心と融合して、明治維新の時の廃仏毀釈をも乗り越えたのか。
 宗教行事の一つに、お坊さんのお説教というのがある。
昔は、お寺の坊さんといえば、各々の地域では最高の教養人であったろう。
その人が、仏法からの教えを基に、善男善女を前にして法話を説く。
 中にはやたら長くて、中身の無い話を延々と続ける坊さんが居る。
だいたい長話をする人に限り、人を引き付ける話が出来た試しがない。それに、今時は庶民といえども大学などを卒業したりで、、それなりの教養人がたくさん居る。坊さんの説教話などありがたいと思って聞く人は、どのくらい居るのだろうか。
 私には、この時間は拷問に等しくい。
 
近々行われる、親戚の法要。出席を断れば何ということは無いのだが、お付き合いの関係からそうもいかない。
 今は、その日に起き上がれないような病気になれないものかと、我が家の仏壇に祈っている。