日本人は”日本人”で無くなった?

 視力が弱る一方だが、瞼を閉じる時間が確保できると、少しはPCに向かうことができ始めた。
 そんな中、先人が命を犠牲にして我々に残してくれた私たちが暮らすこの国が、少しずつ危機にさらされ始めている。
 今日も、北朝鮮によって、KN15とかのミサイルが日本海に向けて発射された。
 最近の北朝鮮の動向に、多くのアメリカ政府の高官は相当の危機感を募らせている。
 北朝鮮から遥かに遠いアメリカに住んでいても、自国の国民や国土の平和を脅かす脅威に対しては、真剣な態度でその対策に没頭する。
 それに比べて我が日本はどうであろう。
 自国や自国民を守ることのできない憲法イワシの頭のごとく信心して、
平和憲法を守れと、お題目を唱える連中の何と多いことか。
 もうすぐ憲法記念日とやらがやってくる。
今の憲法は、私に言わせれば”平和破壊憲法”であると言ってもよい。
世界中のどの国も戦力を放棄して、軍隊など存在しない国々ばかりになれば、現行憲法は有効であろう。
 しかし、世界の情勢はそんなに甘くはない。
北朝鮮の核開発やミサイル技術の進歩、平気で他所の国の領海を俺の海だと、国際法を無視して岩礁埋め立ての挙句に巨大な軍事基地を建設している中国。
 これらの無法国家が、我が国のすぐ隣にあるという地政学的な環境。
このような現実があっても金科玉条のごとくに、今の憲法を守ろうとする人々が多いこの国はどうなっているのだろうと、不思議な想いが私の頭の中を支配する。
 幕末のペリー来航以来、我々の先祖の方々はいかにして外敵から同胞、国土を守るべきか、頭を痛めてきた。
 資源も財力もなく鎌倉以来武家社会を御破算にして間もなく、清国やロシアという大国を相手に大きな犠牲を払いながら国家の危機を乗り越えてきた。
 大東亜戦争では、圧倒的な国力の差から敗戦も経験させられた。
それでも日本国という国体を残すことができ、世界を驚かせるような敗戦後の立ち直りを見せた。
 全て、最大にして最高に尊い命を犠牲にされた、先人の方たちの想いを引き継ぐ日本人の美徳が多くの人々の胸に宿っていたからではなかろうか。
 どうして、戦後何十年という時を刻むうちに、本来の日本人の魂が溶解されていったのであろうか。
 戦後の日教組による自虐史観の教育、戦前の日本国をすべて悪者として扱った一部の政治勢力、それと同調する学者やマスメディアなどの活動や扇動が花開いた結果なのであろう。
 
 ある日突然、近隣の国からミサイルを撃ち込まれたら、さらに、そのミサイルに核弾頭が搭載されていたとしたら…
 それは絶対に起こらないとは断言できないことだ。
 為政者は当然として、我が国のオピニオンリーダーといわれる人々は、このあたりのことを真剣に考えて、将来に備えて欲しい。
 とりあえずは、国会で不毛の森友問題などに無駄な時間を使うより、真正面から我が国の平和と安全、防衛問題、憲法改正などについて討論を展開して欲しいものだ。