陽光を浴びながら・・・。

昨夕からの冷たい雨が早朝には上がり、世が明けると気温も少しずつ彼岸直前の季節に合わせるように温かさが加わった。
 
 今日は”独身”3日目だ。
一人ですることもないので、戸外でのウオーキングとしゃれこんだ。
時計が9時を回ると、薄日が差し始めだんだんと強くなる。
アスファルトの道を外れ、田園の広がるあぜ道に出るとそこには、犬のフグリ、仏の座などの春の花々が紫の小さな花弁を広げ、私を歓迎してくれる。
 
 歩きを緩めて伸び始めた雑草の中に目を凝らすと、春の到来を告げるツクシが数本顔を出している。
気がつけば日差しはさらに強さを増し、長い冬の終わりを宣言しているように感じた。
 
 野辺の道を歩きながら、先日からマスコミで取り上げられている広島県府中町の悲しい出来事を思い浮かべた。
 
 少年はどうして両親や周りの者に何も相談しなかったのだろう。
万引きなどの触法行為とは無関係であったのなら、何故、担任教師に断固として「ボクはそんなことをやったことはありません」と告げなかったのか。
 
 実は散歩に出かける前に、ブログで懇意にしていただいている方の同じような疑問が記されていた記事を読んで、そのことが私の頭の中に残っていた。
 その方のブログへのコメントで、親御さんに大切に育てられた児童、一人っ子などの少子家庭の子どもなどにみられる特徴として、自分の意見をはっきりと口に出せない子どもが増えていることを、それとなく書き込んだ。
 
 歩きながら、私は経験からそう思い込んでいただけで、果たして私の見解は正しかったのか。的を得ていたのか、自問自答しながら歩き続けていた。
 私が接している中学生の中にも「次からこのような予定で進めるからな」と、これkらの予定を述べると、その場では黙って聞いてくれる。決して疑問や異議は唱えない。
 そのようなとき私は、初めは本人は了解しているつもりで受け止めていたが、実際にことを始めると、了解してくれたと思っていた子どもは参加しないまま。そんなことがよくあった。
 
 先日も3月の予定を確認し合ったのだが、子どもと確認し合っただけで予定を実行に移すことは止めて、迎えに来た親ごさんに直接会って、予定を伝えた。
親ごさんの口からは、「これで終わりにしたいと思います」と私の計画に参加しないことを告げられた。
 
 つまり子どもは自分の気持ちをストレートには告げることが出来ずに、親の口から伝えてもらおうとその瞬間を待っていたのだ。この子どもは私とは趣味や世の中の動向などで意見が合い、特に科学技術の話には積極的に乗ってくる。
 日本のロケット技術の進歩や宇宙工学などの話になると、目を輝かせながら自分の意見をどんどん述べる。だが、自分のこれからのことなどになると、途端に口が重くなる。
 
 いま、このような子どもが増えているのではないか。
教師はその子の気持ちに寄り添いながら、子どもの特性、自分に対してはどこまで心を開いてくれるのかなど、把握しながら指導を進める必要があるのではないかと思う。
 杓子定規に規則がこうだからとか、公平性を重んじてなど自分だけの思いこみで接すると、大きな失敗を招く。
 
大人の価値観、倫理観などは変えにくい。しかし、子どもの意識は自身の成長と社会の変化の中でどんどん変わって行く。
 残念なのは、指導に当たる教師がもう少し生徒を信じて、紙切れに記されたことを鵜呑みにする行動を控えたなら、このような悲しい出来事は防げたのかもしれないということだ。
 
 気がつけば、陽光の中帽子もかぶらず歩いていたので、うっすらと汗ばんできた。
私はいつもの遠回りを避けて、我が家へと足を速めた。