早くも5年、復興は進んだのだろうか?

 5年前の今日、私たち夫婦は30キロ離れた街の老人施設で暮らす母を訪ねていた。
家内は母にとってお気に入りの嫁で、家内の顔をみるといつも喜びを表情にあらわして 自らいろいろな話題を口にしていた。
 
 認知症が進行していて、そばにいる私が自分の腹を痛めた子どもであることは記憶から消えていた。
 それでも家内を認識することはできて、積極的に話しかける。
私はそんな母の様子を眺めながら時を過ごした。
 
3時過ぎ、施設をあとにして自宅へ急いでいたとき、家内の携帯に息子から電話が入る。
「お母さん、今東京はもの凄い地震があって、ボクが乗っている電車は駅に止まったままだ。いつ動くか解らない」
 息子と家内の会話から大かたを感じ取った私は、家へと車を加速させた。
帰宅して一番にテレビのスイッチを入れる。
 
 画面は東北の田園風景を写していたが、広大な田んぼに多量の水が押し寄せていた。それを観ただけでは何が起こっているのかすぐには分からなかった。
 
 テレビの画面には日本地図が映り、東北から北海道、関東などの方面は海と陸地の堺に赤いラインがひかれ大津波警報が伝えられていた。
やがて画面は陸前高田市気仙沼市の様子に変わり、たくさんの家が津波に呑み込まれる瞬間を伝えた。
 
 あとは、息を飲むようなシーンの連続で、これが日本でいま起きていることなのかと、信じることを拒否しょうとする自分が居た。
時が経つにつれて、被害の様子が伝わりこのままでは日本が壊滅するのではないかという恐怖に変わった。
 
 あれから5年が瞬く間に過ぎた。
この5年間で、NHKは「あの日私は・・・」などのコーナーで被災の時の人々の様子、災害の爪痕を伝えてきた。
 それを観ながら、犠牲になった多くの方々、運良く助かった人々の生活などが、機会あるごとに伝えられた。復興の様子も伝えられてはいる。仮設の商店街、仮設住宅に暮らす人々、高台に新しい住宅地などが開発中されている様子は伝わるが、被災の範囲が広すぎるからか、目に見えて復興が進んでいるようには思えない。
 
 福島の原発事故の犠牲者は、未だに故郷へは帰れない人が多いし、故郷へ帰ることをあきらめた人も多いのだろう。
 一部の人たちが帰宅しても、街は以前の活気を取り戻すことは不可能だと、新しい土地で生きていくことを決めた人は、苦渋の決断を強いられた結果だと思う。
 
 テレビでは新しい巨大な防潮堤や高台での人々の生活は伝えているが、同時にいつ起きるか解らない「南海トラフの大地震」などへの備えも必要だ。
地震、火山爆発、台風、水害など自然災害から遁れることのできない日本では、歳出の見直しで無駄を省き、福祉や災害対策に万全の準備ができるような国の体制作りも必要であろう。