子育てと組合活動
以前、シングルマザーと子どもの貧困について書いたが、家庭の核家族化が進みいつしか、子どもは家庭だけで育つものだとの風潮が根付いた。
この背景には、子育てに無関心な地域社会のあり方やうっかり他所の子どもに声をかけようものなら、変質者と間違えられるなど難しい問題が多々ある。そうした世の中のあり方がいつしか、社会の教育機能を失わせる現実を加速させたのではないかと私は思う。
私が育った昭和30年ごろは、それぞれの地域には必ず今ではおせっかいと揶揄されかねないお年寄りやおばさんなどが、子どもの行動に目を光らせ、子どもが間違った行動を起こし他人に迷惑などかけようとすれば、他人の子でも遠慮なく注意する。
また、そうした目配りが地域での子どもへ対する犯罪を未然に防ぐ役割も果たしていた。こうした世の中のあり方こそ、社会の教育力と言われるものであったのだ。
今は地域の連帯感が薄れ、家庭だけでは限界がある子育ての空白が大きく広がっていると、私には思えてならない。
子どもは、一家庭の宝ではなく、地域の宝、国の宝なのだ。
そして、今の子育てには相応の経済力も必要だ。勉強だけなら教科書の無償配布や義務教育での家庭への経済負担は私が子供のころより軽減されているのではないだろうか。
しかし、部活動や給食、教育教材などの購入費の負担などを考えると、家庭の負担は必ずしも全体では軽減されたと断じることはできないと思う。
しかも、現在の子育ての主体である家庭では、夫婦共働きが当たり前だ。
さらに、シングルマザーや父親だけで子育てを行っている家庭では、親が子供の元へ帰るまでは、どうしても学童保育などの施設を利用する必要が生じる。
それに市職労が反発し、その建物への籠城が始まったとニュースは伝えている。
市としては単に建物を明け渡してくれと言うのではなく、少し遠くなるが代替施設の提案もしているらしいのだが、市職労としては、長年今まで使いなれた建物を明け渡すことには反対だと、徹底抗戦の構えを見せている。
しかし、市の構想にとしては、子育ての支援をするための設備を建設することを議会の承認を受けて決めた事業である。
一日も早く子どもたちへ、安心して遊び、学べる施設を提供することへ市民は期待を膨らませている。その一方で、自分たちの既得権益を放そうとしない組合の反対の態度には呆れているらしい。
鎌倉市政は以前は革新市長のもとで、組合活動はぬくぬくとした環境の中でやりたい放題が黙認された経緯がある。
しかし、組合員も元をたどれば市の職員である。
市民の暮らしに奉仕するという基本的な理念を忘れられていては、市民からも浮き上がるのではないか。
ここは一刻も早く、子どもたちの為に市職労は建物の明け渡しを行うべきだ。