貧困の連鎖は断ち切れないのか

 最近のテレビ番組では、シングルマザーの生活の困窮、そこで育つ子供の貧困の様子を取り上げたものが、度々放映されている。
 
 私はそんなテレビのドキュメントを観ていて、そのたびに心が痛む。
だからと言って、私にはそんな人々に力を貸す力も経済的ゆとりもない。
 
 私は敗戦の中を着の身着のままで、家族に連れられ台湾から引き揚げた。
幸い曾祖母の暮らす家屋があったので、私たち7人の家族はそこに身を寄せて暮らしの立て直しをすることになった。
 傷痍軍人である父親は、家族の経済的な基盤を求めて毎日職探し。母親は幼い5人の子どもたちを飢えから守るため、日夜そのことで頭が一杯であったそうな。
 
 年月は流れ、何とか一家は一人も飢え死にするようなこともなく、それぞれが学業を終えて一人前に育って行った。
今、振り返ると、その頃の日本は誰もが飢え、誰もが貧乏の暮らしを当たり前として敗戦の焼け跡で汗を流し、祖国復興へとひたむきに労働に精を出した。
 幼い私たちも親の奮闘ぶりをそばで眺めながら、自ら手助けになることはないかと、身体を動かしたものだ。
 
救われたのは、貧乏な境遇にあるのが自分たちだけではない。日本人全員が戦に負けて歯を食いしばっているのだと言う現実であった。
 
 現在の日本は、高度経済成長の後、拝金主義の考えがはびこり昔から日本人が美徳としてきた道徳規範や倫理観が希薄になってきている。
そのことに気が付いている人々は、決して少ない数ではなかろう。
 そんな風潮の中で、特殊詐欺が横行したり、貧困ビジネスという言葉が示すように、いつも弱者がターゲットになる嫌な世の中になっている。
 
 わけあってソングルマザーになった人。離婚した後別れた夫から仕送りされるはずの養育費が滞って、幼いわが子にロクに食べ物も与えることのできないお母さん。
働きたいのに、子どもを安い保育料で預かってもらえないお母さん。
 寡婦手当や児童手当などわずかな国の援助では、日々の生活ができないお母さん。
 こんな家庭にこそ生活保護が必要であり、そのための制度だともいえる。
しかし、現実はそうではない。
 生活保護を食い物にする人間、それをビジネスに生かす連中。政府やそれぞれの自治体の役所はその不当な行いにメスを入れることはできないのか。
 
 世の中が弱者救済に積極的になり、それを食い物にする連中がいっぷできればもっと、明るいよのなかになるはずだ。
 
 貧困の中で育つ子供らの境遇は、きちんとした学問を受けられない。栄養が傾き身体の生育にも良くない影響がでるという。
 
 政府は、こんな人々を救済するための新しい制度、それに対応する法制の確立を大きな国の目標とできないのであろうか。