戦艦ミズーリ号と重光葵

昨日の大分関係の夕方のニュースは、1945年の4月11日鹿児島県喜界島沖でアメリカの戦艦ミズーリに特攻をかける日本の戦闘機と戦艦の姿が別のアメリカの船から撮影された写真を発見されたことを、新聞もTVも一斉に報道していた。
 
 隣町の宇佐市には、旧海軍の航空隊の基地があって、大東亜戦争の爪痕がいろいろ残り、ここから多くの兵士が航空機に乗って戦場に旅立った。
 宇佐市民の人たちの心には、今の平和な日本がそんな多くの人々の尊い犠牲の上にある。
 このことを忘れぬように。今の平和をどこまでも守り続けようなど、いろんな意見のもと「豊の国宇佐市塾」という組織を作り戦争の遺構や遺産を探して展示したり、発表会などを開いて活動を続けている。
 
 この方たちが、先日米国公文書館から大東亜戦争末期の1945年4月11日、喜界島沖を進んでいたアメリカの戦艦ミズーリに旧海軍の戦闘機が特攻作戦を敢行
ミズーリの後方(?)にわが軍の戦闘機が体当たりして爆発している写真を発見したものらしい。
 
 この写真を観ながら私は、同年9月の東京湾に停泊中のミズーリ号の艦上で、ポツダム宣言を受諾後、我が国の代表として降伏文書にサインをするために乗り込んだ重光葵氏のことを思い出した。
 
ここにその時のことなどを詳しく認めた
 日本の戦前を考える研究所  UESUGI KENNSINN さんの記事(2014年2月20日)の一部を引用させていただいて、重光葵外相兼副総理のことに触れたい。
 
 記事が長いので、最初の数行と後半の大部分は省略させていただきます。
 
 
 調印後の時間が経過した後
”願わくは 御国の末の栄えゆき
  我が名を蔑む(さげすむ) 人の多さを
 
 重光は後世日本が発展し、降伏の汚点を残した自分の名を子孫が蔑んでくれるようにと願いました。
 ところが後世の日本人は、戦争に負けた悔しさも忘れ「平和になって良かったじゃん」と呑気にぬるま湯に浸かり重光の悲壮な決意も彼の名も知りません。
 
 恐らく対米戦争へと突入していく時代 重光以上に戦争に反対した人物はいません。
 そして、戦争が始まったときに、重光以上に戦争遂行に知恵を絞った人もいないでしょう。
 これは決して矛盾している事ではありません。
戦争は決して行ってはいけません。しかし、一度始まったからにはそれに断じて勝たなくてはいけないのです。
 
 一般国民は、重光とは反対に無責任に対米戦争を煽り、日本が負けた瞬間に全てを戦争指導者の責任にして逃げました。
 重光はこういう人間を一番嫌いました。
 
    引用終わり
記事はまだまだ長いのですが、私の体力ではこれ以上の引用は無理なのでこのくらいにしておきます。
 
 私が子どものころ、重光翁の選挙区と同じだったので何度か、御姿を拝見したことがあります。
戦争で片足を痛め、いつも片方の足をかばいながら歩行する姿が、痛々しかったことを覚えています。
 
 幼い私にとっては、単なる郷土の偉人でしたが、私は成長するにつれ重光翁の日本人の美徳を持ち続ける姿にどんどん惹かれて行きました。
 
重光翁は別の世界から我が国の復興をどんな想いで見つめているのでしょうか。