気になる

 昨日あたりからテレビの一部では、2学期が始まると不登校の子が増える。
最悪の場合は、学校に行くのが嫌で自らの命を絶つ子まで出ると言う事例を伝えたりしている。
 
 昔に比べ、子どもを取り巻く環境は大きく違ってきたし、子どもが気軽に相談できる状況がとても薄っぺらだとも言える。
 
 しかし、私たちが子どもの頃と比べてみると、今の子どもは精神的な弱さを持つものが多くなっているのではなかろうか。
 私はその根源が、家庭の在り方と少子化にあると思えてならない。
 
 家庭での保護者の価値観が、昔と今では随分違う。
昔は、人間の精神性を重視した価値観が一般的だった。
弱い者いじめは、人間としては最も卑怯で恥ずかしいことだとか、他人に迷惑をかける様な恥ずかしい行いをしてはだめだ。とか、家庭での会話にはこうした精神面の話題が多かったような気がする。
 
 少なくとも私はそんな環境の中で育った。
成長するにつれ、自分が今存在している歴史をさかのぼれば、先人の尊い犠牲や努力、苦労の末に開花した環境の上で生活を享受している。
 人は決して一人では暮らせない。
多くの人々の中で、支え合い、協力し合いながら社会というものを構築してきた。
 
当然、違った人格同士が共同の社会を創るのだから、意見の違いや衝突は起こり得る。そんな中でその一員として暮らしていくためには、他人の話に耳を傾け、自分ならこうありたいという気持ちも相手に伝え、時間をかけて相互の理解を深めて行く。
 
 どうしても相いれない、つまり、ウマの合わない人も居るだろう。そんな場合は少し距離を置いて冷却期間を作りながら、決定的な決裂を避けるなど、生きて行く知恵が少しずつ身について行ったように記憶している。
 
 そこでは現代と違う大きな家庭環境というものがあった。
まず、親であるが、今ほど勉強に対してガミガミとは言わなかった。これは、私が育った家庭だけのことではなく、友達の家庭でも似たような環境であったと思う。
 普通の親であるから、大所高所から人生論などで、子どもを諭すのではなく極一般的な世間での生き方を、理屈抜きに話題として触れる程度であった。
 例えば、知らない人でも挨拶は欠かすなよ、とか、道端で困っている人を見かけたら、近寄って手助けすることはないかなど聞きなさい。自分の手に負えないことであれば近所のおじちゃんに助けを求めればよい。なんてことである。
 
 身近な子ども同士の遊びの世界では、5人兄弟で育った私は兄たちのそれとない注目の目を意識しながら、夕方まで夢中で友達との遊びに熱中した。
 
 今の子どもたちには、このような環境が与えられているだろうか。
もちろん、私は昔の方が良かった。今はすべてが悪いと言う積りはない。
 
 しかし、今の子どもたちの多くは、親身になって相談に乗ってくれる兄弟や友達が居ないのではなかろうか。
 親の価値観も、ほとんどは勉強の結果が、子どもを計るバロメーターになっていると思われる家庭が多い。
 
 
 一部の子どもにとっての家庭は、親の過干渉で表面上は居心地の良い環境が保たれている。
子どもはその温室みたいな居心地の良い住みかで夏休みの40日を過ごす。
 
 そうした場合、一見居心地の良い環境にどっぷりと浸かっていた子どもは、2学期が始まる学校という共同生活の場に戻ることに、拒否反応を示したりする。
しかし、周りにはその悩みを相談する人はいない。
 
 日ごろの親の過干渉で、自分一人では何の結論も出せない能力の子どもが育ち、本来、夏休みの長期休暇を通して、学校を離れ自分の自立心を成長させるために過ごし方を工夫すべき時間を無駄使いした反動が、変な形で現れるのではなかろうか。よく、”過保護”と”加干渉”が混同して使われることがあるが、この両者は大違いの概念である。
 過保護は、子どもにとって必要な状況は、かなり起こる。
しかし、加干渉は子どもの自立心の目を摘み取り、親子で甘え合うだらだらの環境づくりの原因になる。
 
 少子化というのは、子どもに手をかけ易い。昔の子だくさんの家庭でどの子にも手厚く親が指導するなんてことは、不可能であったがそれが功を利することがずいぶんあったのではないか。
 一人かふたりの子どもを育てるために、親が天塩にかけ過ぎるとかえって精神的にひ弱な子どもが育つ可能性も否定できない。
 
 もちろん、世の中には私が感心するような、理想的な子育てを実践されている家庭も数多く存在する。
 しかし、2学期が始まることを苦にしたり、不登校を希望する子どもが増えることは、どう考えても不幸なことである。
 
子育て中のご家庭での親の使命は何か。子どもにどんな環境がふさわしいのかなど、良く考えて欲しいなと思う。
 
 子どもは、家庭、自治体、国家、人類の宝物なのだから。