ヘイトスピーチするのは、どっちだ。
これに対し稲田氏は同日、記者団に「大変心外だ。何をとらえてそう言っているのか説明をすべきだ」と反論した。
稲田氏は20日の記者会見で「ヘイトスピーチは悪だ」と強調。
25日も「ヘイトスピーチを認めることはあり得ない」と述べた。同時に、新法による規制については「表現に自由などの影響も慎重に見極めて検討すべきだと語った。
( 26日産経ニュースより)
細野氏は稲田議員のどの発言を根拠にして、こうした発言をしyたのか。
根拠も示さず、ただ、非難だけ行うと言うのは国会議員にあるまじき行為だし、一般の人々の間でもそんな発言は当然許されない。
公人である立場に細野氏が、記者会見という公の立場で何ら根拠を示さず批判だけを行った事に、稲田氏が厳しく異議を唱えると言うのは当然である。
その発言には一言も触れずに、記者団の前で非難だけする態度を国民はどのように見るのであろうか。 稲田氏が「表現の自由などへの影響も慎重に見極めて…」と言ったことを根拠にしたのであれば、それはお門違いというものである。
表現の自由という言葉を、自分たちの都合の良い時だけ用いて、反対する勢力が使うのはけしからんとでもいうのであろうか。
民族差別や人種差別を悪として、ヘイトスピーチを非難するのは、常識ある日本人なら誰もが持つ感情である。
しかし、最近の安保法案の審議に関しては、いわゆる「ヘイトスピーチ」もどきの発言を良く耳にする。
民主の面々に限らず、マスコミや共産党、街頭で反対ののろしを上げるデモの連中は、何を言っても許され、その行為に対し可笑しいじゃないかと異議を唱える。世界遺産登録に関しての韓国の反対、徴用工を強制的に連行したなどの事実はないのに、異議を口にするとヘイトスピーチだと非難される。慰安婦の問題も中国の南京大虐殺に関しても同様である。事実の検証も出来ない雰囲気というは、あまりにも可笑しいと言わざるを得ない。
いつものことではあるが、どちらがヘイトスピーチを行っているのか解らない状況についての議論はないままだ。
この際、国会議員の皆さんは、一方に偏らず公平に議論を尽くしてもらいたいものだ。