8月の思い出

皆さんに年がバレてしまうが、私は両親や兄弟と共に昭和21年の4月ごろ(資料によれば昭和21年3月30日から4月6日にかけて、和歌山県の田辺港にリバテイ船が一隻入港していた記録が残っている。父に聞かされた引き揚げ当時の話と、ほぼ完全に符合するので、私はこの船で台湾のキールン港から日本に引き揚げてきたと信じている)
台湾から日本の和歌山県へ引き揚げてきた。
 
 私が4歳のときのことだ。
その半年前に日本が戦に敗れ、外地で生活していた日本人およびその家族は、一斉に各外地からの引き揚げを余儀なくされた。
 
 4歳の私には、日本が戦争にやぶれたことの実感は全く無かった。
リバテイ船というのは、一種の貨物船のようなもので船内環境は劣悪を極めた。
この船に3500人が乗船して日本を目指す。
私の父は、3500人の最高責任者として、船内を飛び回り私たち家族のもとへはほとんど顔を見せなかった。
 
 私の耳には、お腹が空いたとき、ドラが船内に鳴り響き「飯上げ~、飯上げ~」と食事の案内をする船員の声が今もこびりついている。
船内で出たご飯は、茶色のポロポロとすぐにこぼれる小麦だけで作ったもの。良く噛まないとつぶれずにお腹へ入りたちまちお腹を壊す。
 それにたしか、タクアンが少しばかりついていたと記憶している。
 
 小麦をそのまま炊いた茶色のご飯らしきものは、味もせせらもない食べ物であったが、空腹という最高の料理人のおかげで、何とか腹を満たすことができた。
 
 引き揚げてきたあとの生活は、ここでは書かないが台湾で敗戦を迎えた4歳の子どもが体験した、終戦時の話を少しばかり書きたい。
 
 大人たちは日本が戦争に負けて、終戦になったことを当然知っていたのだが、子どもの私には全く記憶が無い。
 終戦時私たち家族は、ギランというところに居た。
 
今までは、周りは日本人の家族、兵隊さん、台湾の人たちだけであったのが、ある日見知らぬ人々がどやどやと私たちの住み暮らすエリアに姿を現した。
母や兄は、「目を合わすな。知らない振りして口を聴いてはだめだぞ」と幼い我々に注意してくれた。
 
 あとで知ったことだが、蒋介石の国民党の軍人どもであった。
ギランの町はきれいに整備され、家の近くには広い公園などもあった。
そこで水遊びをしていると、放し飼いのガチョウが首を伸ばして襲ってくる。
逃げ遅れた私は2番目の兄におんぶされガチョウから逃げる。ガチョウは私の尻をめがけて首を伸ばし尻をつっつく。
 
 夜が来ると、父親たち大人は集まって何か相談に一生懸命だった。
ある日、持てるだけの荷物を持って、母がこれから日本に帰るため移動すると言ってきた(ここのところは私は記憶していない。私の弟がまとめた「父母の軌跡」という本を参考に書いている)
 どうやって移動したのかも覚えてはいない。多分列車かバスで移動したのだろう。
到着したのは、台湾の北東部の港であるキールンという町であった。
 
そこでは、見たこともない髪の毛の色や背が異様に高い兵隊らしきものがたくさん居た。進駐してきたアメリカ軍の兵士であった。
 
 港では、貨物船に大きな荷物がクレーンでつり上げられ、積み込まれていた。
ときどき、クレーンから船には届かず海に落ちる荷物などを見て、ハラハラした思い出がある。
 
 キールンの町に何泊したのかは、定かではないが次の思い出は劣悪な船の中であった。
 引き揚げたのは、4月前後のはずであるが、私の記憶には妙にその半年前の8月の記憶の方が鮮明に残っている。
 
それは、8月のある日から突然、家族のつながりや生活の中身が大きく変化したからであろうと、大きくなってから理解することができた。
 
子ども心に一夜にして、大きく置かれた立場が変わったことは、受け止めることができたのであろう。
私たちは、台湾からの引き揚げ者であったことが、後になってどんなに天に感謝しただろう。
 台湾の人々は、私たち日本人と仲良くして、お互いを尊重し合って生活できていた。日本軍も台湾の人たちに対し、威圧的な態度は一切取らなかったと、父から聞いた。
 そして、決定的なことは、蒋介石の国民党軍は毛沢東共産党軍に追われて台湾へ逃げてきた。アメリカ軍は国民党軍を支援して両軍ともに日本人に憎悪感をあまり持ってういなかったことが、幸いしたのではないか。
 
 あとで聴けば、満州や北支などでの終戦を迎えた人々が、経験した残酷な仕打ちや殺戮など言葉では言い尽くせない犠牲者が数多く出ている。
本当にお気の毒なことだ。終戦の日が近づくと戦争の反省より先に、中国の通化省で起こった通化事件などを忘れようとしても、忘れられないのだ。
 
 今年は、通州事件などの慰霊が靖国神社で行われたそうだ。
大東亜戦争となると、すぐに反省や謝罪などが話題になるが、通州事件通化事件
を歴史の中に埋もれさせてはいけない。
 
 私にとっての8月は、着の身着のままで台湾から引き揚げ、こうして今も日本の繁栄のおかげを享受している幸せを感じ取るときである。
 その繁栄の礎になられた、数多くの英霊の御魂に感謝をこめて15日は黙とうをささげたい。