東京都の君が代裁判
定年後の再雇用を拒否されたのは不当として、東京都立高校の元教職員22名が、都に対して2億7400万円の損害賠償を求めた訴訟の判決があった。
東京地裁(吉田徹裁判長)は、25日都に5330万円の賠償を命ずる判決を出した。
式典で立って歌うと定めた都教育委員会の通達(2003年)以前は、不起立が懲戒処分の対象にもなっていなかったと指摘。
(時事通信5月25日)
このニュースにはまだ文章が続くのだが、要点はこのようになっている。
最近、君が代を歌わない国立大学やその他の学校の在り方が問題になっている。
その通達を守らないというのは、組織人として失格であるし、守らないと決めた時点でその行動における責任というものを自覚していたはずである。
この裁判長の”客観的合理性や社会的相当性に欠ける”という判断は明らかにおかしい。
裁判長は、この原告の人たちの仕事の重みを考えた末の判断であったのだろうか。
現場の教育者は、常に指導する生徒のお手本になることを意識して仕事に励む義務がある。
その教員が、教育委員会からの通達を無視して、不起立という行動に出たことは、その蛮行を重く受け止められて当然である。
学校の先生が自ら命令に反旗を掲げ君が代斉唱を拒否する姿勢が、生徒たちへどんな影響を及ぼすことになるのかを考えるべきである。
その行為により、生徒たちへどのような社会性が育まれていくのか。裁判長はそのことを考えたのであろうか。
もし、学校現場の秩序を乱す行為が、何らお咎めなしということになれば、学校が荒れ始めたとき誰が責任をとれるのか。
その生徒が成人して、世の中の法規範を順守せず、やりたい放題のことを始めてもこの裁判長は、それを許すというのか。
この教師たちが、自分たちの行いは正しい。教育委員会の方が間違っているとの判断で通達に逆らったのなら、それなりの覚悟ができていたはずだ。
それなのに、生徒の前で違反はするし、退職した後は通達を守った他の教師たちと同じ待遇をせよと要求することが、生徒たちへのお手本になるのだろうか。