まるで鬼の首をとったような…
もちろん、役者は党の委員長である志位氏だ。
志位氏は、安倍総理に安保法制に関連して
「あなたは、ポツダム宣言を読んだことがあるか」
と、問いただした。
安倍総理は
「つまびらかに読んではいないが・・・」と、軽くいなす。
この件で、志位氏はまるで鬼の首をとったように、一国の総理があのポツダム宣言を読んでいないとはと、総理の姿勢を追及。
論戦が終わった後も
「安倍首相は、どうも、ポツダム宣言を読んではいないようだ」
と、場外でもこのことを、自分の手柄話のように宣伝に使った。
私に言わせれば、総理がつまびらかであろうと、無かろうと、真摯な姿勢でこんなものを読む必要は全くない、と思う。
この、宣言の6条には、日本がドイツ、イタリアと同盟を結び世界を我がものにしょうとしたとの、意味合いの文章が書かれている。
日本は確かに、欧米諸国がアジアを植民地にしている現状を打破し、アジアの国々を欧米支配から解き放とうとの考えから、大東亜共栄圏の理想を掲げてアジアにおける権益を欲しいままにしている欧米列強に戦いを挑んだ。
さらに、ABCD包囲網によるエネルギーの遮断、小さな島国がこれまで近隣諸国との貿易で物資を補給していた道を断たれたことなど、止むにやまれぬ事情があって中国から東南アジアへの南進を図ったという事情もあったことは間違いない。
反日左翼の連中は、日本はこれをのんだ。ということは欧米のつきつけた文言を承知したからであり、真摯にこの文章と向きあうべきだという。
だが、昭和20年の7月ごろの日本の状況を考えて、このようなことを主張しているのかと問いたい。
戦局は日本をますます悲惨な状態に追い込み、3月に無差別な空爆を受けた東京など、国民は食うや食わずの中を戦火を逃れて、逃げまどう日々。
沖縄に米軍が上陸、ここも無差別攻撃で多くの非戦闘員が犠牲にあった。
極めつけは、広島と長崎に落とされた原子爆弾だったであろう。
止むにやまれず認めはしたが、心の底では納得し兼ねるということは、人間が生きて行く上でよく起こることだ。
ありもしない世界を我がものになどというウソに、我々日本人はいつまで縛られ続けねばならないのか。
たとえが悪くて申し訳ないが、罪を犯した人が刑期を終えて社会復帰する。それも自分では納得しない理由で収監された。法や社会は本人が認めたので、悔い改めて償いをすべきだと、言うであろう。
その人が、心では納得はしなかったものの、これ以上長引かせて家族やまわりに良くない影響を及ぼすことは避けたい、と考えて罪を認めたとする。
それでも、世の中は未来永劫、罪を背負って生き続けろと、要求するのであろうか。