専門家とは何なのか?

 昨日、福井地裁は関西電力の高浜原発3号機、4号機の再稼働さし止めの仮処分の決定を下した。
 
 これで、関電がこの決定を不服として控訴しても、今年中の再稼働はできなくなった。
 
はじめにお断りしておくが、私は原発にはまだ未解決の問題が多すぎて、政府が安定的なエネルギーの供給という観点から、原発の再稼働を急ぎたい姿勢には幾分かの疑問を持っている。
 
 核燃料廃棄物の処理や一度事故が起きると、被害が際限なく広がり一電力会社での解決が無理なことは、福島の原発事故で嫌というほど思い知らされた。
 
 だからと言って、日本のエネルギー事情から判断すると、すぐに原発反対、脱原発へ舵を切れとは到底いえない。
 結局、将来へ向けて原発依存率を下げながら、最終的には依存率をゼロに近づけることが必要だと思う。
 
 最初の福井地裁の運転さし止めの話題に戻るが、私がこの裁判所の判断に違和感を覚えたのは、樋口裁判長はどこまで専門家の意見を聞き、参考にしたのだろうということだ。
 
 すでに原子力規制委員会は、運転再開にゴーサインを出している。
この地裁の判決は、多くの専門家が相当な時間を費やして出した結論に真正面から異議を唱えたことになる。
 
 地裁の判事は、法律の専門家であることは誰もが認めるところだが、原子力発電の分野でも規制委員会の学術経験者を上回る見識をお持ちなのだろうか。
 
 このような訴訟では、必ず市民運動の怪しげな団体が圧力をかけてくる。反対の旗を振り場がら徒党を組んで、大声で反対を唱え、関係する役所や裁判所の付近を取り巻く。
 
 もちろん、このような連中の声に影響を受けたとは思わないが、最近の裁判官の見識が明らかにおかしいと思われる、(今治市のサッカーボールが校庭外に飛び出した事件など)事案が、裁判官が判断したことへの不信感になっていることは否定できない。
 
 こうなってくると、専門家とは何なのだろう?
裁判官が規制委員会を凌ぐほどの原発への専門的知識や見解を持っていれば、信頼度も上がるのだが、神でない限りそんなことはあり得ない。
 
 専門家の意見を参考にして、公正、公平な立場で客観的に判断した結果なのか、気になって仕方がない。