幻影の彼方(72)

 大きく手を振って安川を見送っていた瑞希
「安川さんて、まるで誠ちゃんのお父さんみたい。いろんなことに気がついて、優しさがあふれている人ねえ」
「そうなんだ。顔はちょっと見には怖いけど、ほんとに優しい人だよ。それにしても、安川さんも瑞希も、人が悪いなあ。僕の知らないところで、いろいろ打ち合わせしていたなんて・・・」
「嬉しい。”瑞希”と、呼んでくれた。安川さんが電話してきたのは、昨日のことよ」
 瑞希は笑顔のまま続けて
「それでね。事件が解決したので、『明日は長尾くんに何処かへ連れて行ってもらいなさい』と言うのよ」
「私が、長尾さんは解決したら、素敵なところへ案内すると、云ってましたわ。と、応えると『そうか、是非、そうしなさい。明日は一日、彼はヒマなので少し遠くでも出かけられると思うよ』って」
「そして、『事件のことや、あなたのお父さんのことは、直接、長尾くんから聞きなさい。なんと云っても、お父さんの敵討ちをしたのは、長尾くんなのだから・・・。こちらの人も彼の活躍を褒め称えてくれて、私も鼻が高かった』と、云ってました」
 瑞希は、長尾に喋らせないように、次々に言葉を重ねた。
 やがて、ふたりはレンタカー会社を訪ね、それに乗ってヒゴタイ公園を目指した。
 ハンドルを握りながら
「僕は、この事件の捜査に参加して、たくさんのことを学んだり経験したよ。中央署の長谷部さんや谷口さんとの合同捜査も勉強になった。でも、なんと云っても瑞希に会えて、仲良くなれたことが、僕にとっての一番の出来事になったなあ」
「嬉しい。父の災難が起り、悲しみを引きずりそうになったとき、どれだけ誠ちゃんの優しさに救われたかわからないわ」
「そう云ってくれると、僕が瑞希の役に立てたんだと、嬉しくなるなあ」
「でも、父は・・・」
 急にはしゃいでいた瑞希の声が小さくなる。
「さっき、安川さんが『事件のことは、長尾に聞け』って、云ってただろう。心配しなくていいよ。お父さんは、結局、不起訴になったんだ。これは、無罪と同じようなものだからね」
「そうなの。それなら嬉しいなあ。母もミホちゃんも喜びます」
「実は、僕もこのことが心配でたまらなかった。瑞希が悲しみに打ちひしがれるのは、耐えられないし、どうなっていくのかと、頭から離れなかったよ」
 ふたりがおしゃべりに夢中になっている間に、車はどんどん進む。
 高速を下りて、地元の「九重物産館」という看板が見えてきた。ふたりはそこに立ち寄ることに決め車を離れた。
 お昼用の弁当や飲み物を買い、瑞希が外に出ようとすると、長尾が花を売っているコーナーの前に立って、どれを買おうかと迷っている。
「どうしたの?誠ちゃんはお花が好きなの?」
「ううーん、お供えするのにどんなのが良いかなと、思ってね」
「誰にお供えするの?」
 長尾が小声で
「実は、君のお父さんにね」
「エッ、父がころ・・・」
 瑞希はあわてて口をつぐむ。
「そうなんだ。今日はそこへ瑞希を案内しょうと思ってね」
「そこが、素敵なところなの?」
 瑞希の表情が険しくなる。
 長尾はあわてて清算を済ませ、瑞希を店の外へ連れ出した。
瑞希のお父さんが、亡くなったところが、素敵というよりも、見晴らしの良い素敵な高原なのだよ。お父さんの魂へ捧げるためということもあるけど、どうしても、そこへ瑞希を案内したかった・・・」
 瑞希は、父の生命が絶たれたところが、素敵というのではないことは、わかりすぎるほど判っていたのだが、複雑な想いで長尾の話を聞いた。
瑞希に、是非、鎮魂の花束を捧げて欲しかったし、そのこととは別に、ふたりでその高原に立ってみたかった」
「判ったわ。誠ちゃんの気持ちは、充分すぎるほど判っているのに、取り乱してごめんなさい」
 瑞希は、いつもの自分に戻り、高原の坂道を上りながら、草原で草を食む牛たちを見て歓声をあげた。
 となりで運転しながら、そんな無邪気な瑞希を見て、安川の温かな気持ちに感謝する長尾でもあった。
 高原の道をドライブしながら、瑞希はその景色の素晴らしさに興奮して、何度もなんども感嘆の声を挙げる。
 やがて、車はヒゴタイ公園に着き
瑞希のお父さんは、この辺りで亡くなったんだよ」
 長尾があずまやの近くの草むらを指差す。
 今まではしゃいでいた瑞希は、途端に無口になり、涙を落とし始めた。長尾は近寄って瑞希を抱きしめる。
 気持ちが落ち着いたのか、涙を拭きながら
「これで3回目ね。誠ちゃんに抱きしめられて泣いたのは・・・」
「これをお供えしょうよ」
 長尾が車から花束を持ってくる。瑞希は黙って受け取り、長尾が指し示したあたりにそっと花束を置いた。
 ふたりは長いことそこへ手を合わせていた。やがて、瑞希が口を開く。
「さっきは、誠ちゃんの温かな気持ちも考えずに、本当にごめんなさい。父はこんな見晴らしの良い素敵なところで、一生の幕を降ろしたのね」
 瑞希は遠くに見える、ギザギザ頭の山を見つめながら、さらに続けた。
「父はミホちゃんのことを、いつも心配していたのよ。『瑞穂が不憫だ。可愛そうだ』と・・・」
「そうだろうね」
「成長の過程で手術が必要になる。そうしないと長生きは出来ませんと、担当のお医者様から云われてました。でも、その手術には、かなりの費用がかかると、父も母もそのことで悩んでいたわ」
「母がミホちゃんのことを心配すると、『俺に任せておけ。瑞穂の命は俺が助ける』と、いつも云ってたの」
 長尾は何も云えず、黙って瑞希の話しに耳を傾けた。
「父にとって、一番欲しかったのは、お金だったのかなあ・・・」
 門脇が、菅野を強請っていたことは、新聞に書かれたことなどから、感じ取っているのであろう。瑞希は第3者のような口ぶりで淡々と話すが、話しているうちに感情が高ぶってくるのが判る。
「お父さんのことは、もう、終わったのだよ。事件のことはすぐには無理だと思うが、少しずつ忘れていって欲しいなあ」
 長尾は、瑞希の想いを事件から遠ざけた話題へと、誘うように言葉を挟んだ。
 それを振り切るように
「父は、幻を見ていたのでしょうね。いつか訪れる、元気なミホちゃんを囲んで、家族が笑いに包まれている幻影を・・・」
「私はここへ来て、青空の下、遠くに見える山々を見たり、気持ちよい高原の空気を身体中に浴びたりしているうちに、少し気持ちが変わってきたわ」
「こんな素敵なところで、人生の幕を降ろした父のことを考えて、かえって救われたような気持ちになりました。誠ちゃんほんとうにありがとう。いつか、母とミホちゃんを案内して必ずもう一度ここを訪れるわ」
 瞳に光るものを溜めながら、瑞希は草原に座り目元にハンカチを当てた。
 長尾もとなりに座り、買ってきた弁当を引き寄せる。
「安川さんから聞いたけど、ここを探し当てたのも誠ちゃんだったのでしょう。父が誠ちゃんに訴えて、ここまで、誠ちゃんを道案内したのかなあ」
「僕も捜査の過程で、一瞬だけど、同じようなことを考えたことがあったなあ」
「私、これだけは信じているの、父が誠ちゃんと私を引き合わせてくれたのだと・・・」
 見上げると、どこまでも広がる青空の中、いつかみたいにジェット機が白い航跡を描いて、東の方へ飛んでいる。
 ふたりは、いつまでも草むらに座り、遠い空を見上げていた。
 
                       完