幻影の彼方(71)

 菅野が門脇と会い、犯行を行なっている時刻に、もともと体型が菅野に良く似た木田は、同じ服装や帽子、サングラスなどを用意する。はな阿蘇美を出るときと、帰ってきたときに、菅野がはな阿蘇美の従業員に顔を見せる。
 その他の時間は、木田が目立つ行動を取りながら、いかにも菅野はこの辺りだけを、散歩したりして時間をつぶしましたよ、と、印象付けしてまわった。
 日ごろは伸ばさないアゴの髭も、印象が強くなるようにわざわざ伸ばし、福の神近くのお婆さんたちに、菓子までプレゼントしたのだが、結果的には、そのことで墓穴を掘ってしまった。
 門脇の遺体をトランクルームに詰め、何食わぬ顔ではな阿蘇美に戻り、木田と入れ替わった菅野は、犯行が計画通りに行なわれたことに充分満足した。
 次の日の未明にホテルを抜け出し、木田を伴って産山ビレッジへ出かけ、門脇の車を木田に運転させて戻った来た。その後車の処分を木田に依頼したが、車は供述どおり、熊本の海の底から発見された。
 あとは木田に、はな阿蘇美での行動、どんな人物に出会ったか、どんな話を交わしたかなどを丹念に聴き取り、いかにもそこで、自分が居て行動したという、裏づけを済ませた。
 さらに木田に門脇の遺体の後始末を頼んだのだが、できるだけ遠くに遺棄することも付け加え、あとは木田に任せることにした。
 このときの菅野は、門脇の遺体が自分の生活エリア近くで発見されることを、極端に恐れ、そのことを回避することで、頭の中は一杯であった。わが身とは無関係な土地で発見されれば、よもや捜査の手が自分の身の回りに及ぶことは無いだろうとの思いが、木田へのそのような要求になって現れたのであった。
 木田は故里の新見より40キロほど手前の、中国道七塚原SAが頭に浮かび、そこへ遺棄するために運転していて、Nシステムに行動をキャッチされていたのだ。
 菅野は、門脇から奪った免許証や携帯電話、手帳、財布の類を丁寧に調べ、自分とのつながりを示す、手がかりはないかを探した。
 門脇の携帯から、香澄とのやり取りが判り、最近になって接近してきた香澄に疑いを持った。香澄が自分から何を探り取ろうとしていたのか、弟の村井隆に相談すると、村井はすぐさま行動に出て、25日には、香澄を拉致してきた。
 香澄がどんなことを、どこまで知っていて、何を門脇から頼まれたのかを、暴力を使って吐かそうとしたが、香澄は頑なに拒み、村井に殺害されてしまった。
 愛する門脇のために、命をかけた香澄の気持ちを知る者は居ない。
 僅かに、安川や長尾といった捜査員たちの一部が、想像の範囲で香澄の健気さに心を打たれるくらいであったろう。
 長尾たちは、そんな香澄の気持ちに対して、あらためて伊都ヶ浜の方に向かい手を合わせるのであった。
 こうして、事件は終息に近づいていった。
 
 門脇の強請りについては、被疑者死亡で、未遂であったこと。強請りの証言は、すべて門脇殺しの犯人だけからのもので、信用性に著しく欠けるということになり、久賀管理官は不起訴を決めた。
 これを一番喜んだのは、長尾であった。
 そばから、安川が小さな声で
「良かったなあ。あの娘に良い報告ができるぞ」
 と、ニコニコしている。
 
 ぞご処理が終わり、合同捜査本部は解散することになった。
 庄原署から参加していたほかの刑事たちは、安川と長尾を残し、早々に福都市を引き上げていった。
 安川の体調は回復していたようだが、明日朝にこちらを引き上げることにして、長尾とホテルへ帰った。
 次の朝、安川が
「長尾くん、俺は今から庄原へ帰る。君はもう一晩泊まって、明日帰りなさい」
 何事かと、キョトンとする長尾に
「ほら、君には、まだ用事が残っているじゃないか。瑞希ちゃんへの報告だ」
「あのう、そんな知らせは、本部の方から行くのじゃないですか?」
「いいや、今回の案件は、君が報告することになっている。このことは、管理官もご存知だ」
 久賀管理官をはじめ、福都中央署の捜査員たちは、こんどの事件の最大の功労者が、長尾であったことを認めている。誰もが労をねぎらって欲しいとの想いから、このようなことになったらしい。
 じつは、安川が密かに動いた結果なのだが、長尾は知らない。
 安川を送るためホテルの外へ出ると、初めて会ったときの細めのジーンズに、水色のシャツの上から薄いピンクのカーデガンを羽織った瑞希が、笑顔で現れた。
 長尾が声をかける前に安川が
「やあ、瑞希ちゃん、おはよう。今日は一日、長尾くんに甘えてくるんだよ」
 長尾は、何のことか判らず、ハトが豆鉄砲を食らったような表情で、二人を交互に見渡した。
「なんですか、警部補。僕はまるで・・・」
 長尾は、次の言葉が出てこない。
「君は、事件が解決したら、瑞希ちゃんを素敵なところへ案内するはずだったのだろう?」
 いつの間にか、安川は瑞希に連絡を取り、いろいろ聞き出していたのだ。
「さあ、レンタカーを借りて、高原の方をドライブしてきなさい。川さんには俺が、残務整理で残したから、一日遅れて帰りますと、報告しておくからな」
 ようやく、いろいろが飲み込めてきた長尾は、安川の気持ちに、熱いものが込み上げて顔を上げられなくなった。
 なんとか、涙をこらえて
「警部補、ありがとうございました。それでは明日帰りますので、よろしくお願いいたします」
 安川の顔を見れば、涙が噴出しそうになるので、顔を上げずに長尾は応えた。
 安川は、ふたりに背を向け、手を振りながらふたりの視界から消えていった。