幻影の彼方(70)

 昨年に入り菅野は、村井建設の専務である村井隆から、耳寄りな話を持ちかけられた。
 村井建設というのは、福都市に隣接する地方都市の中堅ゼネコンで、専務の村井隆は、社長の村井幸次郎に目をかけられて、婿養子に納まった人物である。
 しかも、この村井隆の旧名は「菅野隆」といい、肥後大学付属病院の医師である菅野基樹の実弟であったのだ。
 村井は電話口で
「兄貴、やっと俺達兄弟にも、運が向いてきたぞ」
「運が向いてきたとは、どんなことだい?」
「前から取りたかった大きな仕事が入札できそうで、そうなると、会社の業績も上向くし、これからの県内の公共工事の方にも、どんどん参入していけそうでな」
「今、俺達兄弟と言ったが、そのことで俺にも運が向くのかい?」
「そう、そう、うっかり、一番肝心な話を忘れるところだった。入札できそうな大きな仕事と言うのは、例の人工島に建設される市民病院のことだよ」
「あれの建設の請負工事を、入札できそうなのか?」
「そうなんだ。入札できて、うちで建設が始まれば、裏で手をまわして兄貴をそこの内科部長に推すことが出来る。当然”はな薬”は必要だが、福都市民病院の内科部長だ。すごい話しだろう」
「それは良い話だが、本当に実現できるのか?」
「先ず、間違いないよ。実現は再来年の春ぐらいの予定になりそうだが、兄貴を内科部長に推すことは容易いことさ。なにしろ俺達の口利き相手というのは、相当な大物だからなあ」
 菅野は、大学病院の勤務医としての自分と、人口140万人の大都市病院の内科部長というポストを比較して、この話しに小躍りして喜んだ。
 
 菅野が逮捕され、素直に自供を始めたことを知った村井は、観念したのか、重たい口を開き始め、香澄の殺害を自供した。
 同時に福都市の建設課長を通じて、市民病院の建設予算を聞き出し、入札価格すれすれの価格に設定し、落札したことなども含めて、供述を始めた。
 さらに、この口利きをしたのが、県議会の副議長である倉島であったことも、白日の下に晒された。
 倉島と社長の村井幸次郎が、旧知の中であったことは、多くの人が知っていることであったが、海千山千の二人は、犯罪に手を染めるようなことに関しては、巧みに切り抜けてきたのだった。
 しかし、今度はそうは行かない。
 菅野と木田の薬物を通しての関係、人工島の病院建設にまつわる贈収賄、菅野の内科部長への転身などを、自分の情報網からいち早くかぎつけたのが、門脇であった。
 4ヶ月ほど前、菅野のところへ、門脇から電話が入った。
 門脇は、病院の薬物横流しのことや、福都市の人工島に建設予定の新病院の内科部長になる話など、関係者以外は知りえないことを、どこから聞き込んだのか、かなり詳しく語った。
 その挙句、1千万円の口止め料を要求してきたのだった。
 木田に、このことを相談すると、木田は即座に
「先生、一度要求を呑めば、次々と強請られますよ。それも、要求額を上げてくることは、間違いありません」 
 と、自分の経験(?)をもとに、意見を述べる。
 木田の結論は
「すぐに、門脇を抹殺することです。門脇は、先生以外の人間だと、警戒しますから、先生が直接会って始末をつけなきゃあ収まりませんね」
 それから、菅野は飯田高原の森などを散策して、そこに自生するトリカブトなどの植物から毒物を抽出。缶ビールのプルトップのそばに、目に止まらぬような小さな穴を開け、注射器で毒物を注入した。小さな穴は、乾くと透明になる接着剤でふさいだ。
 8月22日の日曜日は、九州地区の腎臓内科の学会が、内牧温泉で開かれ、お昼過ぎに終わる。夕方から慰労をかねて宴会が開かれるので、4時間近くが自由時間になる。この時間、多くの参加者は温泉に入ったり、ホテル内で買い物をしたりで、猛烈な残暑を避けて、あまり外へ出るものは居ない。
 犯行を行なうには、この日が最適だと木田の協力を得て、実行することに決めた。