幻影の彼方(67)

 トイレのドアが開き、ハンカチで手をぬぐいながら長谷部が顔を出す。
「長谷部さん、昨日の阿蘇市行きは、大成功だったようです。私の狙い通りの結果が、鑑識さんから知らされました」
「それは良かったですねえ。まだ、詳しいことは解からないのだけど、昨日の長尾さんからは、勝負をかけているなという気迫が伝わってきましたよ」
 それから、廊下で長谷部に、約束どおりある程度詳しい説明を行なった。
「長尾さん、今から会議を始めるそうです。管理官があなたを呼んでいますよ」
 中から呼びかける若い刑事の言葉に、二人はあわてて話を切り上げ、会議室へと入っていった。
 田代警部が
「今から捜査会議を開くが、昨日、庄原署の長尾巡査部長が持ち帰った捜査資料から、事件を解決するための重要証拠が出ました。その辺を含めて、長尾刑事にその経緯などの説明をしてもらうことにします」
 集まった捜査員全員が、一斉に長尾の方へ視線を当てる。
 長尾は幾分上気しながら、ボードの前に進んだ。
 すぐ近くで、安川警部補が、誇らしげな表情で長尾を見つめる。
 長尾はその姿を見て、落ち着きを取り戻し口を開いた。
「今回のことは、肥後学園大学の学生である秋元祐治という人が、8月22日の日曜日の午後、熊本県の産山ビレッジの駐車場で、被害者の門脇議員を目撃したということが、発端でした。少し遅れてやってきたのが、肥後学園大学の付属病院の医師、菅野基樹だったのです。門脇と菅野はその後、駐車場から姿を消し23日の早朝に、門脇議員が広島県庄原市で遺体となって発見されたことは、皆さんご存知の通りです。
 数日前、クラブ・エトワールの朱美というホステスから『香澄はスーさんと呼ばれていた男へ接近して、いろいろ情報を得るための探りを入れていたらしい』という、証言を得ていました。
 さらに、駐車場で秋元が目撃した犯人と思われる人物の車が、濃いブルーのBMWであったことも知らされました」
 長尾はここまで一気にしゃべり、一呼吸置き捜査員たちを見回した。
「これらの証言から、私は菅野こそ、門脇殺しの犯人であると確信したのです。ところが、菅野の説明した22日の行動から、完全といえるアリバイが確認されたのです」
「このことは、ここに居られる安川警部補と長谷部刑事、3人で菅野が説明した阿蘇市の”はな阿蘇美”というところへ同行して調べました。このときの結果は、菅野の供述どおりだったのです」
「私は、菅野こそ”本ボシ”であるとの想いを捨てきれず、菅野と菅野役の人物が居たのではないかと、昨日、長谷部刑事と現地まで再捜査に出かけました」
「というのは、現地での菅野の行動が、あまりにも、そこに居たことを印象付けようとした疑惑が、私を駆り立てたからに他なりません」
 捜査員たちは、長尾の長い話に聞き入っていたが、整理が必要と考えたのか、田代警部が割って入り
「どんな疑惑をもったのかね?」
 と、問いかけた。この一言で、会議室の緊張がゆるみ雰囲気が和らぐ。
「はい、菅野が『私はここに居て、別の場所には、一歩も足を運んでいません』と、印象付けるための行動や言い訳に、作為を感じたからです」
「例えば、はな阿蘇美の近くに住む老人達に、お菓子を買ってきてプレゼントしたり、従業員にことさらのように、他愛無い内容の質問をするといった行為が、ワザとらしく感じられました」
「一旦、私たちは現場を離れて、こちらへ引き返したのですが、彼の行為が、喉に突き刺さった魚の小骨のように、私の頭から離れませんでした」
 次の朝、そうだ、その菓子袋に菅野または違う人物の指紋がついているはずだ。菅野のものが検出されれば、白紙に戻して捜査をやり直せば良い。違う人物のものであれば菅野のアリバイは崩れてしまう。そう考えたら居ても立っても居られなくなり、昨日、長谷部さんと現地へ出向き、菓子袋を預かって帰ったというわけです」
「良く菓子袋が残っていたなあ」
 と、再び田代警部
「そうですねえ。ふたりのお婆さんは、すぐに食べてしまって、カラの袋はゴミと一緒に捨てたと言ってました。おそらくプレゼントした男も、自分がその時間にそこに居たことを、印象付けすることばかり考えて、カラの菓子袋はすぐに捨てるだろう。そこから足がつくなどとは思っても見なかったのでしょうね。
 3人のうちの一人のおばあちゃんが、孫が彼岸で帰ってくるので、仏壇にお供えしていると、聞いたことが幸いしました」
「その菓子袋から、菅野とは違う人物の指紋が出たというわけだな」
 田代警部は、声を大きくしてこの事実を強調する。
 詳しく知らされていない捜査員は、誰の指紋が出たのか、興味をそちらへ集中させた。
「菓子袋から出た指紋は、熊本市内でダーツ・バーを経営している、木田淳という男のものでした。鑑識のデータベースを調べたら、1昨年、不法薬物の所持ならびにその売買で摘発され、懲役1年、現在執行猶予中の身であることなどが、判明したのです」
 長尾の口から、木田の名前が挙がると、一部の捜査員たちからどよめきに似た声が伝わってきた。
 「この後、現地の地図をもとに、長谷部刑事に”はな阿蘇美”周辺から産山ビレッジやヒゴタイ公園までの移動に使われたルート、所要時間などについて説明してもらうことにします」
 長尾は、長い説明を終え、長谷部に次の説明をうながした。