幻影の彼方(64)

 長尾はホテルを出て、手土産をと思い、付近の店に立ち寄る。どんなものが良いかと品定めをしているうちに、瑞希の妹のことが頭に浮かんだ。
 お菓子など食べるのだろうか。身体のどこが悪いかで、食べ物を手土産にすることを控えねばならない場合だってある。
 長尾に良い案は浮かばず、結局、地元の銘菓を買ってタクシーに乗り込んだ。
 マンションでは、瑞希が外へ出て待っていてくれた。
 長尾の顔を見るなり、走り寄ってくる。
「ああ、長尾さん、来てくれてありがとうございます」
 瑞希は、挨拶を返そうとする長尾の手をとって顔を見つめる。そのまま、七塚原のときの様に、長尾の胸に顔をうずめ泣きじゃくり始めた。
 長尾はどのように声をかければ良いのか途方にくれ、やっと
瑞希さん、辛かったのですね」
 と、声をかけた。
 瑞希は優しい長尾の言葉に、堰を切ったように長尾の胸で激しく泣いた。
 長尾はこれまで頼る人もいなくて、我慢を続けた瑞希の気持ちを推し量り、夢中で瑞希を抱きしめる。
 高校のとき以来、女性との付き合いは皆無に近い長尾であったが、ごく自然な行為として心と身体が動いたのだ。
 近くを通る人が、チラチラとこちらを見ながら通って行く。
 不思議なことに、長尾はそれが全然気にならない。
 泣きじゃくっていた瑞希が、恥ずかしそうに長尾から離れ
「いつかも、こんなことがありましたね。いつも、長尾さんの身体は温かくて、私、長尾さんの胸で思いっきり泣くと、とても気持ちが落ち着くの」
 瑞希はマンションの入り口に背を見せて、長尾に話しかけている。
 長尾は、マンションのエントランスに、女性らしき姿を見た。どうやら、瑞希の母のようだ。瑞希の帰りが遅いので、心配になり様子を見に降りてきたのだろう。女性は、長尾と瑞希の姿を確認して安心したのか、すぐにエレベーターの方へ歩いて姿を消した。
 長尾はそのことを瑞希に黙っていると、
「あのう、お願いがあるのですが・・・」
「どんなことですか?」
「私のこと、”瑞希さん”と呼ばないでください。瑞希と呼び捨てにして欲しいなあ。なんだか、いつも他人行儀に聞こえるんです」
「じゃあ、僕のことも”長尾さん”はやめてください」
「ええ、私、あなたのことをどのように呼ぼうかなあ・・・、そうだ、やはり名前で誠二さん・・・じゃあなく、”誠ちゃん”で良いですか?」
 ふたりの若者らしい、他愛の無い時間が過ぎてゆく。瑞希に笑顔が出始めた頃合を計り
「お母さんが心配しているでしょう。中へ入りましょうか」
「本当はここで、誠ちゃんといつまでも話していたいのだけど、仕方ないわね」
 今夜は、いつもより打ち解けて、瑞希の言葉遣いがずいぶん砕けてきている。長尾はそのことを好ましく想い、瑞希への愛おしさがさらに強くなっていく自分を、意識するのだった。
 部屋へ入ると、線香の香りが漂ってくる。そこでは、妹の瑞穂も車椅子に乗ったまま、長尾を迎えてくれた。
 長尾は、挨拶の後、早く切り出しておいたほうが良いと判断し
「瑞穂さんは、どこが悪いのですか?」
 瑞希より、母親の君子が素早く反応して
「この子は、先天性の心疾患で、お医者様から成長の過程で、手術が必要だと云われて、今日まで来たのです」
 瑞希が、君子の話しに続けて
「ミホちゃんは、中学2年生なんだけど、あまり学校にも通えなくて、私と家でお勉強することが多いのです」
 それから、今日の新聞記事のことや。これからの3人の生活など、いろんな話題が出て、時間が過ぎていった。
 家庭の大黒柱を失い、途方にくれ、相談する人も居ないまま、今日を迎えたのだろうか。
 長尾は、立ち入ったことではあるが、そのことも聞いてみた。
「主人の両親は、早くに亡くなり、兄弟も居ませんので、私の方にしか相談相手は居ません。主人の友だちだった兄が何とか相談にはのってくれるのですが・・・」
 君子の語尾が微妙に、小さな声に変わるのを聞きながら、瑞希が誰にも相談できずに、今後のことに胸を痛めていたのかと、不憫な気持ちで一杯になる。
 それでも、時折、笑い声に包まれ、この家族に快く迎え入れてもらえたことを、長尾は密かに喜んだ。
 瑞穂が自分の部屋へ戻り、長尾は、そろそろ、いとまの潮時だと判断して、辞去の挨拶をする。
 そばから瑞希
「まだ早いのに、もう少し居てくれても・・・」
「駄目ですよ。長尾さんは明日も、大切なお仕事があるのですから」
 君子が、瑞希に言い聞かせる
「また、伺ういます。今夜はとても楽しい夜になりました。ありがとうございます」
「本当に、楽しかった? 私、お世辞は嫌いよ」
 瑞希は、駄々をこねるように、長尾を見つめて話しかけてくる。
「本当だよ。福都市に来て、初めてこんな楽しい夜が過ごせたよ」
「嬉しい、私も誠ちゃんに励まされて、元気が出たわ。また、きっと来てね。私、やっぱり、地下鉄の駅までおくります」
 長尾はあわてて、それは駄目だと断る。
「僕を送ったあと、一人で帰すと、僕の方が心配になるよ。駅までは歩いてゆくから大丈夫だよ」
 しぶしぶ承知した瑞希
「お母さん、下まで送ってきます」
 瑞穂の部屋に行きかけた君子に声をかけ、ふたりは部屋を出る。
 外は冷え冷えとして、秋が近寄っていることを実感させた。
「私、駅まで送りたいなあ。いいでしょう?」
「駄目、駄目、さっき約束したばかりじゃないか」
 今夜のひと時は、急速にふたりを近づけて、長尾の言葉使いも変わってきている。
「それじゃあ、また、連絡するからね。何があってもあわてたり、気を落ち込ませたりしては駄目だよ。僕にすぐに相談するんだよ」
 長尾が、手を振って瑞希から離れようとしたとき、いきなり、瑞希が接近して長尾の頬に唇をくっつけた。
 甘い香りが鼻腔をくすぐる。瑞希はそのまま
「誠ちゃん、さようなら。今夜はたくさん、たくさん、ありがとう」
 の声を残し、マンションの玄関へと駆け込んで行った。