幻影の彼方(63)

 陽が西に傾き、特に用件の無い捜査員たちが、帰宅の準備を始める。捜査本部を立ち上げた直後であれば、本部で寝泊りは当たり前のことであった。しかし、日を追うごとにいろんな事実が解明され、本部詰めの捜査員たちにも事件解決が近いという、気持ちのゆとりが感じられ始めた。
 長尾も田代警部に、安川の様子が気になることを伝え、ホテルへと引きあげた。
 ホテルの部屋では、安川が目を覚まし、長尾の帰りを待っていた。
 朝よりはずいぶんと気分が良さそうだ。 
 長尾の顔を見るなり
「今日の収穫はどうだった?」
 と、問いかけてくる。
 長尾は、警部補だけには報告しておこうと、かいつまんで阿蘇市の”はな阿蘇美”に出かけ、昨日のお婆さんから、菓子袋を預かってきたことを話した。
「安川さんは気がつきましたか?菅野の顔だけの写真を、はな阿蘇美で見せたときは、誰もがすぐに見たことを答えましたねえ。でも、福の神のところのおじさんやお婆さん、かど屋の店員などは、顔だけのものでは首をかしげていました」
「そうだったなあ」
「つまり、福の神でも、商店街でもサングラスをしたままだったので、はな阿蘇美の従業員しか、菅野の顔をというか、目を見ていないのです」
「それでも、全身が写った方を見せたら、みんなこの人だと、うなずいていたぞ」
「そこなんです。顔は、目を見ると本人かどうか、すぐに判別できます。はな阿蘇美を出発するときと、帰ってきたときは、顔を見せて、途中の福の神や商店街では、サングラスをしたまま、というのが気になっていたんです」
「それでも、外は夏の太陽が容赦なく照り付けて、誰もサングラスは外さないぞ。ちっとも不自然ではないよ」
 安川は、意地悪く反論するように、長尾の意見に絡む。これは、本当に長尾の意見を疑問視したり、意地悪く対応しているのではなく、長尾の考えがつじつまが合い、信じるに足る見解であるかどうかを、二人して確かめる行為だといえた。
 そのことを百も承知の長尾は、挑戦するように自分の意見を安川にぶっつける。
「もし仮に、顔は誰が見ても違うけど、体型や歩き方、声色などが似ているような、同じ年恰好の人物が居れば、この犯行は可能になってきますよねえ」
「たしかに、そんなのが居れば、君の言うとおりだと思う」
「それで、僕は、サングラスで顔を見せなかった人物が、菅野本人かどうか、確かめたくて”はな阿蘇美”まで行ってきたのです」
「君の努力が、実を結ぶことを祈るよ」
 安川は疲れてきたのか、身体を横たえ、掛け布団を肩まで引き上げた。
「警部補、今朝の新聞を読みましたか?」
「いいや、今日は、新聞を読むどころじゃあなかったよ。どうかしたのか?」
「いいえ、それなら良いのです。僕は、これからちょっと出かけてきますが、よろしいでしょうか?」
「珍しいなあ。あの娘と逢引かい?」
 ”逢引”など、若者が使わなくなった、どぎつい言葉に、長尾はあわてて
「そんなんじゃあ、ありませんよ」
 と、語気を強める。
「昨日、今日と、強行軍だったのだ。良いから行ってきな。俺のことは心配しなくていいからな。あの娘によろしくな」
「はい、わかりました」
 勇んで応えたあと、安川の”誘導尋問”に引っかかったことに気がついた長尾は、思わず安川と笑い声を挙げるのだった。