幻影の彼方(61)

 トシちゃんのとなりで、口数を控えて座っているもう一人のお婆さんに
「昨日、22日にもらったお菓子を、仏壇にお供えしていると云ってましたね」
「そげえタイ。わしが食べるよか、孫に食べさせたいもんね」
「それを私に預からせてもらえませんか?お孫さんには、これで勘弁してもらって」
 長尾は、福都市を出発するときに買ってきた、3個の菓子箱を差し出した。
「そげな、気を使わんでも良かとよ。孫には、わしが買うてやるケン。ちょいと待ってな。家に帰って取ってくるケン」
「ああ、僕も行きます。実はあまり触らない方が良いので、僕に仏壇から回収させてください」
 長尾は、長谷部を残し、そのおばあさんの家まで付いていった。
 お婆さんの家は。先ほど訊ねたところであった。家のものが好奇の目で、じろじろ眺める。
 長尾も家に上がらせてもらい、手袋をはめて大切そうに、仏壇のお菓子袋を持参した別の袋へ回収した。
「かえって気を使わせて、すまんことじゃねえ」
「僕が持ってきた御菓子も、日持ちはしますので、お彼岸までには充分長持ちしますから」
 長尾は、丁寧に礼を云い、長谷部に合図して車のところへ引き返した。
「長尾さんがここを再び訪ねた目的は、これだったのですねえ」
「そうなんです。これに着いた指紋が、菅野のものかどうかを確かめたかったのですよ」
 長谷部に答える長尾の引き締まった表情は、これまでに感じたことが無い強い気持ちを示していた。
 庄原から福都市へ、福都から九州山地の高原地帯や熊本県の各地へと続いた捜査の終着駅が、すぐそこに見えている。しかし、中々たどり着けない。その前に立ちふさがる鉄壁のアリバイという大きな壁。
 長尾は口にこそ出さなかったが、この内牧温泉まで、再び訪れたことは、遠く、捜査の手が及ばないところで、ほくそ笑んでいる菅野と自分の”静かな戦い”なのだと思っていた。
 この対決に勝利して、悪を暴きだすことが、今、自分がやらねばならない正義を行なうことであると・・・。
 さらに、無念のうちに命の灯火を消さざるを得なかった、被害者への鎮魂の供養になる。そんな想いが若い長尾の胸中に広がっていた。
 そんな、長尾の想いが伝わったのか、そうではなかったのか、長谷部は納得したようにうなずいて車をスタートさせた。
 一刻も早く、中央署へ帰り、鑑識にこの菓子袋を渡したい。この袋から菅野の指紋が出れば、自分が描いたシナリオは、白紙に戻さなければならない。
 長尾の頭の中には、あれこれとこれまでの捜査の道筋が浮かぶ。それを一つずつ検証していくと、どうしても菅野の顔が、犯人像として鮮明になるばかりであった。
 となりでハンドルを握りしめる長谷部は、静かに想いにふける長尾の表情を横目に眺め、一言も発しないまま福都市を目指して、アクセルを踏み込むのであった。
 
 本部へかえるや否や、長尾が
「長谷部さん、私はすぐにこれを鑑識に届けてきます。あとで報告に行きますので、部屋で待っていてください」
 そう云い残し、例のおばあさんから預かった袋入りのお菓子を持って、急ぎ足で本部へと消えていった。長谷部はその後ろ姿を、呆気に取られながら見送った。
 やがて、会議室に現れた長尾は、すぐに電話を入れて安川の様子を尋ねた。
 電話を終えると
「それじゃあ、管理官のところへ報告に出かけましょうか」 
 長尾はようやく長谷部に近寄り話しかける。
「今、久賀警視は県警の方へ出かけているらしいです。田代警部に報告をしてきましょう」
 田代警部への報告を終えて、長尾はやっと日ごろの表情を取り戻したように、長谷部は思った。
 なんだか、今日の阿蘇市行きに、長尾が勝負をかけているような意気込みを感じて、詳しい話を聞くことも無いまま、運転し続けた自分がむなしく思えた長谷部でもあった。