幻影の彼方(60)

 長尾は、部屋に入るなり
「警部補、起きてください。もう、7時を過ぎています」
 その呼びかけに反応せず、安川は寝息を立て続けている。何かおかしいぞ。安川さんは、いくら疲れていても、こうぐっすりとは眠りこけない。
 長尾は、恐る恐る安川の額に手を当ててみた。自分の体温と比べるが、安川の額は火照るように熱い。
「・・・大変だ。警部補は疲労と体力低下で、身体が参ったみたいだ・・・」
 長尾は、洗面所に駆け込み、タオルを冷やして安川の額を覆ってあげた。冷たさで目覚めたのか、安川が目を開ける。
「ありがとう。俺は体調を崩したようだな。でも、心配しなくて良いぞ。すぐに起きるからな」
 そう云って、安川は身体を起したが、ベッドから降りるとき、へたへたと、長尾の前でへたり込む。
「警部補、今日は休んで、医者に診てもらってください。警部補が倒れたら大変です。本部には僕が事情を伝えておきますので」
 これまでの強行軍と残暑の厳しさが、安川の身体を痛めつけていたのだろうと、長尾は心を痛めた。
「そうだな。無理してこじらせれば、君たちに迷惑をかけることになる。今日は、君の忠告に従っておこう」
「僕はあれから考えたことがありますので、もう一度、はな阿蘇美まで、あることを調べに出かけます」
「調べに行くって、どんなことを調べるのだね」
「それは、僕が帰ってきてからのお楽しみにしていてください。僕の思うとうりかどうか、判りませんので」
「そうか、それでは今日の行動は、君に任せよう。捜査が首尾よく行くことを祈ってるからな」
 長尾は、本部に立ち寄り、安川の病気を報告して後を頼んだ。その後、今日の行動予定を話し、田代警部に了解をもらう。
 長谷部に運転を頼み、繁華街に出る。老舗の菓子店の前に来て、
「ああ、ここでちょっと買い物をしてきます。少し、待っていてください」
 長尾は、不思議そうに自分を見つめる長谷部に合図して、菓子店の中へ入っていった。
 すぐに店から出てきた長尾は、その店の紙袋に入った品物を下げ、車に乗り込んできた。
「お待たせしました。それでは、安全運転でお願いします」
 長尾の一声で、再び阿蘇市を目指し、車は動き始めた。
「長尾さん、何か気がついたことがあるのですか?」
「昨夜、考えたのだけど、どうしてもふたりの菅野が居なくては、矛盾が解決できないのです」
「ふたりの菅野とは?」
「産山ビレッジで秋元くんが目撃した菅野と、はな阿蘇美でたくさんの人に目撃された菅野。このどちらも事実であれば、ふたりの菅野が存在しなくては、つじつまが合いません」
「それがそうだけど・・・、秋元さんが見間違えたのじゃあないですかねえ」
「僕は、これからそれを確かめようと、はな阿蘇美に向かっているのです」
 長谷部は、長尾の説明に、もうひとつ合点がいかない様子であったが、それきり口をつぐんで運転に専念するのだった。
 福都から高速に乗り、熊本までは車は快適に進んだ。その後、国道57号線に入ると、例のカーブが多い細い道を、車はスピードを落として進む。右手に見える大きな川の流れに目をやりながら、ノロノロとした車の流れがやけに気になる。
 やがて、遠くに阿蘇雄大な外輪山が見え始め、目指す”はな阿蘇美”が近づいたことを知らせてくれる。
 今日は、昨日に比べ来訪者が少ないのか、駐車場がガラガラだった。
「車はここへ停めておきましょう。ただし、今日はここには用事はありません」
「エッ、どこへ行くのですか?」
「昨日会った、3人のおばあちゃんのとこですよ」
 ”福の神”を祭っているところへ、今日は誰も出ていない。二人は、見当をつけて近くの家々を訪問した。
 昨日、トシちゃんと呼ばれていた元気そうなおばあちゃんを探し当てようと
「ごめんください。ちょっと、お尋ねしますが”トシちゃん”と呼ばれている80歳くらいのおばあちゃんの家は、どこでしょうか」
 玄関を開け、声をかけると、住人が奥の方から警戒心むき出しの顔を覗かせる。まるで、オレオレ詐欺の容疑者でも見る目つきだ。
 長尾は、警察手帳を見せながら、怪しいものではないことを説明して、やっと”容疑”を晴らす。
「ああ、トシちゃんなら、裏の家ですタイ。どげん用事ね」
「いいえ、大した用事ではないのですが、昨日お会いして、聞き忘れたことがあったもので・・・」
 裏のトシちゃんを訪ねると、昨日のおばあちゃんもふたりして遊びに来ていた。
「ああ、昨日の人バイ。今日はイケメンの若いお兄ちゃんだけね」
 トシちゃんが笑顔で、
「まあ、こっちに上がらんね。今、お茶を飲んでるとこタイ」
「もう一人の怖そうな、おじさんは、どげえしたとバイ」
「僕たち、あまり時間に余裕がありませんので、ここで、けっこうです。怖そうなおじさんは、今日は風邪をひいて寝込んでいます」
「鬼のかく乱ちゅうこつかいね。ファ、ファ、ファ~」
 あくまでも愉快なおばあさんたちである。このままだと、時間だけを浪費しそうなので、長尾は用件を切り出すことにした。