幻影の彼方(55)

「休みが終わったので、両日とも病院で勤務していました。23日は、夕方に仕事が終わり、家族で市内の焼肉店に出かけましてね。アルコールが入ったので、家内に運転してもらい、そのまま家に帰りました。家に帰りついたのは10時過ぎでしたねえ。その後、風呂に入り、テレビのニュース番組を見たあと、ベッドに入りましたよ。24日は普通どおり出勤して、患者の診察に当たりました」
 菅野医師は、あらかじめ質問内容を予測していたように、流暢にしゃべりまくる。
 そばで、成り行きを見守っていた長尾と長谷部は、その態度にかえって不信感をつのらせた。
 菅野の言うことが本当だとすると、彼には完ぺきなアリバイがあることになる。安川は一呼吸おいて
「判りました。今日のところはこれで引き揚げることにします。まだ、お聞きしたいことがいろいろありますし、新たな事実も判明するかもしれません。そのときは、ご協力を是非お願いいたします」
 安川は、長尾たちをうながして腰を上げた。
 車に乗り込むと、すぐに
「これから、佐々木警部補を送ったあと、内牧温泉というところへ”ウラ”をとりに出かけるぞ」
 
 刑事たちが、病院を辞去すると、菅野はすぐに内科部長の呼び出しを受けた。
事務長から内科部長の小林へ、報告があったのであろう。
 内科部長の部屋をノックすると、中から不機嫌そうな小林のとがった声が、ドアを通して菅野の耳に突き刺さる。
 開けると同時に
「今日の福都署の刑事の訪問は、いったい何の話だったのかね」
「はい、瀬の本高原の方で。8月22日に、殺人事件があったとかで、私に犯人の心当たりはないか?と、事情を聞きに来たようです」
「君に事情を聞きに来たということは、まさか、君が事件に関与しているのじゃあ、ないだろうね」
「とんでもありません。私が関係しているなんて、不名誉なことを口にしないでください」
「橋本くんは、君が被疑者のように、尋問されていた、と、云ってたぞ」
 小林は、大学や病院の名誉に関わると言わんばかりに、刑事たちが病院を訪れたことに、不快感をあらわにした。
 あまり、否定だけするのは、話が長引いてややこしくなると思ったのか、菅野は少しだけ事情聴取の内容にふれることにした。
「先月の22日は、内牧で腎臓内科の学会が開かれましてね。そのときの私の行動について、あれこれ聞かれたことは事実です」
「当然、疑われるようなことは、何も無かったのだろうね」
「もちろんです。学会が終わり、自由時間になったとき、私は会場のホテルや近くの物産館で、買い物をしたり散歩したりしていました。瀬の本高原の方まで足を伸ばせるはずがありませんよ」
「まあ、何も無かったのなら良いが、大学や病院の不名誉になるようなことは、絶対に慎んでもらわないとねえ」
 診療時間のことを気にして、盛んに時計に目をやる菅野を、最後まで不機嫌なままの小林はにらみつけるようにして、ようやく解放することにした。