幻影の彼方(53)

 安川が意気込んで、長尾に語りかける
「菅野でスーさん、先生と呼ばれていたこととも符号します。この男に間違いありませんねよ」
 長尾も興奮さめやらぬ顔で応じる。
 連日の強行軍で、疲れはピークに達しているはずの二人であったが、ついに本ホシへたどり着いたとの思いが、疲れと言う魔物を封じ込めてしまっていた。
 エトワールへ到着して、朱美を呼び出してもらう。
 営業用のドレスで身を固め、派手な化粧をした朱美は、オフのときの表情とはまるで違う笑みを浮かべながら、二人の前に姿を姿を現した。
 この時間、九州の日暮れは午後6時半頃なのだが、九州一の歓楽街であるエトワールの辺りは、早くもネオンが瞬き、賑わいへの準備が進んでいた。
 西へ傾いた夕陽は、ビルの陰へ姿を消し、暮色が段々色濃くなってゆく。
「これから仕事なので、あまりこんなところで長話はできないのですが・・・」
 朱美はヤンワリと予防線を張りながら、長尾たちに話しかけてきた。
「いいや、すぐに用件は済みます。この写真を見てこの男が、この間云ってた”スーさん”か、どうか、確認して欲しいだけですよ」
 安川もヤンワリと応じる。
 熊本県警から送られてきた写真は、顔をアップしたものと、全身を写した2枚であった。安川はそれを朱美の前に差し出した。
 朱美は、店の看板の前に移動して、写真を灯りにかざして見つめる。
 安川と長尾は、朱美が写真へ目を通す表情を、無言で見つめる。
 やがて、朱美は
「店ではチラッと見かけただけだから、似ているようだとは思いますけど、少し違うような気もします」
「えっ!スーさんか、どうか、よく解からないのですか?」
「店内の灯りはかなり暗いし、昼間にスーさんを見かけたことがないので、この人に間違いありませんとは、云えないのよねえ。それに、この写真は、アゴの方にヒゲを生やしているでしょう。私が見たスーさんは、ヒゲは生やしてはいませんでした」
 朱美から良い答えが引き出せるものと、意気込んで来た長尾たちは、申し訳無さそうに応える朱美の言葉を、虚しい気持ちで受け止めていた。
「灯りが暗くても、近くからスーさんを見ていたら、はっきりと応えられたのに、本当にすみません」
 朱美は、自分が悪いことでもしたかのように、申し訳無さそうな表情で言葉を重ねた。
「写真じゃあなくて、その人を見れば、もう少しははっきりとするのかも・・・」
 チラッと時計に目をやる朱美から、今日はこれ以上は無理だと判断した二人は、気落ちした様子で中央署へと、引き返した。
 期待したとおりの答えを、朱美の口から引き出せなかった安川と長尾の身体に、封じ込めていた疲労という魔物が、結界をやぶり勢力範囲を広げていく。
「とにかく、明日、菅野という医者に直接会って、話しを聞いてみないことには前へは進めませんよねえ。僕は明日の事情聴取に期待しますよ」
 長尾は、自分を納得させるような言い方で、安川に話しかけた。
「そうだよなあ。菅野という男に直接会ったときの印象が大事なんだ。我々の仕事は、経験を積めば積むほど、被疑者から受ける印象で、本ホシかそうでないかが、ピンとくるようになる」
「とりあえず、今夜はぐっすりと睡眠をとって、明日に備えましょう」
 ふたりは、納得しあって、ホテルへと引き揚げるのだった。