幻影の彼方(51)
この湯布院行きは、今度こそという意気込みが強かっただけに、車に乗ると疲れがみんなの身体をいじめてくる。
九州道を北上しながら
「本部の方では、村井の取調べが進展しているのでしょうかねえ」
長谷部がハンドルを握りながら、力なくつぶやく。
「さて、村井がそう易々とゲロを吐くとは思わないが、どうなっているかなあ」
長尾は、安川と長谷部の会話には参加せず、未だに見えない敵への闘争心を静かに燃やしていた。
3人が福都中央署へ着き、失意の表情をにじませて車を降りたところで、突然、長尾の携帯が鳴りはじめた。
長尾は、本部の方へ歩き始めながら、携帯の受信ボタンを押した。
「えっ、そうですか。ああ、ここは外なので、雑音がひどくて聞き取れません。すぐに折り返しこちらから、かけ直しますので、一旦切ってお待ちください。何秒もかかりませんので」
安川と長谷部が、これまでの意気消沈した長尾の表情が変わり、声が弾んでいるのに注目し
「長尾くん、どうした?誰からの電話だ」
「秋元さんが、BMWの男を思い出したらしいのです。急いで中へ入りましょう」
署の中へ入り、静かな場所に移動しながら、長尾はもどかしげに携帯の返信ボタンを押した。
受話器の向こうから、祐ちゃんの弾んだ声が聴こえてくる。
長尾は、天使の声でも聴く気分で、受話器を耳にあてている。そばで緊張した面持ちの安川と長谷部が、覗き込むように、長尾の受け答えを一言も聞き逃すまいと、耳をすませている。
長尾は、そんな二人をしり目に、片手でメモを取り続けた。
「ありがとうございました。あとで、確認の電話を入れるかも知れませんので、そのときはよろしくお願いいたします」
受話器を折りたたんだ長尾の目が、興奮で血走っている。
「安川警部補、BMWの男は、菅野基樹と云って、肥後学園大学の大学病院の医師ということでした」
「これまでの努力が実ったなあ。これで疲れが吹っ飛んだよ」
そばから長谷部が
「凄いお土産になりましたよねえ」
彼の声も興奮のあまり震えている。
「とにかく報告だ。詳しくは長尾くんから管理官へ説明してくれ」
安川は若い長尾に花を持たせ、自分はそれを見守ることにした。長尾には安川の親心のようなものが伝わり、胸が熱くなる。
3人は、車を降りたときの悲嘆さを忘れ、意気揚々と久賀管理官の部屋をノックした。
秋元祐治は、3人の刑事たちが帰った後、訪ねてきた友達から、来春の学生募集の新しいパンフレットを見せられた。20ページに満たない冊子であったが、カラー写真をふんだんに使用した綺麗なパンフに仕上がっていた。
掲載された内容は、どこの大学が出版するものと、たいして違わず、学部案内や学内の施設、学生達の大学生活の一部などが、写真つきで紹介されている。
パラパラとページをめくっていて、秋元の目は、あるページで釘付けになった。
見開き2ページが使われたそこには、学内施設が紹介されていて、図書館や大学病院などが載っている。
病院の内科を取り上げたところに、患者を診察している菅野医師の姿があったのだ。
学生数が多くて学部をいろいろ持つ総合大学などでは、学部が違うと教授も学生も知らないものばかりだ。
秋元祐治は3年前の冬、インフルエンザにかかり、後期の試験が危ぶまれたことがあった。そのとき、診察してもらったのが菅野医師であったことを、その写真を見て思い出したのである。
この菅野医師こそがBMWの男だった。秋元は、はやる気持ちをおさえながら、長尾の携帯の番号をプッシュしたのだった。