幻影の彼方(39)

 朝の目覚めはいつもより快適だった。ようやく残暑が和らぎ、昨夜はエアコンのお世話にならずに就寝できたからであろうか。
 とくに安川の機嫌が良さそうだ。
「おはよう。睡眠時間がタップリ取れたので、今日は一日、エンジン全開で頑張れそうだよ」
「昨夜はエアコン無しで眠れたのが良かったみたいですね」
 二人は、朝食をいつもより多めに詰め込み、出発の準備を始めた。
 中央署へ行くと、長谷部刑事が一足早く出勤してきていて、彼の様子からも張り切った意気込みが伝わってくる。
 中央署全体の雰囲気も、昨日までより数段明るい。
「おはようございます。高原の朝夕はこちらより、冷え込みがきついですから、一枚余分に長袖を持っていったほうが良いと思います」
「お前さん、そんなことは昨日のうちに教えてくれなきゃあ、これからホテルに帰るのはごめんだよ」
 そのやり取りに長尾が割って入り
「安川警部補は、庄原の高原地帯で生活してきたから、大丈夫だよ。長谷部君をからかっただけさ」
 と、真面目に受け答えようとする長谷部に助け舟を出す。
 やがて、3人は長谷部の運転で、熊本県瀬の本高原を目指して出発した。
 
 3人が瀬の本高原へと車を走らせていた、そのころ、中央署では久賀管理官を中心に、会議が開かれていた。
 門脇の家族に、本人が産山村の方へ出かけたことがあったかを、問い合わせたが、家族が知る限り、そんなことは一度も聞いたことが無い。多分、これまでそこへ出かけたなんてことは、無かったのではないか。これが、家族からの返答であった。
 一度も出かけたことが無い現場から、本人の指紋がついたタバコの吸殻が発見された。
 これは門脇が殺された現場が、産山村ヒゴタイ公園であるとの確証といえた。
 今、その現場へ、長尾たちが聞き込みに向かっている。
 久賀警視は、門脇のメモにあった、村井建設の面々の香澄が殺された29日と、その前後数日の行動を、どのように探るべきかを集まった捜査員たちへ問いかけた。
 22日、門脇が殺された日の彼らのアリバイは、その後の綿密な捜査により全員が”白”と認定された。 
 例えば、専務の村井隆がハウステンボスへ出かけていたことは、ハウステンボスの従業員の証言で確認された。社長の村井幸次郎についても、県議会議員もその秘書も、同席していたことを証言した。
 令状も取れない今の段階での捜査の難しさは、署員たち全員が解かっているだけに、29日およびその前後のアリバイについても、口裏を合わされれば、それ以上の追求ができなくなる。
 田代警部が
「日ごろから彼らの悪い評判は、いろいろと伝わってくるので、別件で引っ張るというわけには行きませんかねえ」
 と、沈滞ムードに活を入れようと、発言する。
「そらりゃあ、叩けば埃の出る奴らのことだから、出来ないことはないが。出来るだけそういう手は使いたくない。聞き込みを重ねて、令状が取れるぐらいの事実を掴みたい。任意で引っ張れば、彼らの警戒心は強くなり、肝心な証拠の隠滅に走りかねないからなあ」
 久賀警視は、全員を見渡しながら、自分に言い聞かすように、言葉を続けた。
「とにかく、聞き込みだ。必ずどこかに突破口を見つけることが、できるはずだ」
 捜査員の多くは、久賀警視の
      ”突破口が見つかるはずだ” という言葉に虚しさを感じた。
 そんな手詰まりの状態が、捜査員たちに重くのしかかっていたともいえる。
 ところが、その”突破口”は、些細な事故の発生により、向こうからやってきた。