幻影の彼方(38)

「どうした、長尾くん。少し疲れているようだな。午後はちょっと休んだらどうだ。聞き込みは他のものを連れて行けば、事足りるからな」
「いいえ、疲れてはいませんよ。僕をお供させてください」
「お供させてください、と、きたか。それじゃあ、連れて行かんわけには、いけねえよなあ」
 安川は笑いながら、了解してくれた。
 約束した2時には、まだ早すぎたが二人は中央署を出て、エトワールの方へ向かった。
 朱美は、もう来ていて、退屈そうに時間をつぶしている様子であった。
 安川が早速、聞き取りを始める。
「香澄さんが、最近よく指名を受けていた客の名前を思い出したとか?」
「ええ、本名は知らないのだけど、スーさんと呼ばれていた人の指名が、一番多かったのじゃないかしら」
「スーさんといえば、映画に出てくる釣り好きの社長の愛称みたいだなあ」
「私も、TVでその映画を観て思い出したんです。名前の頭文字から、キーさんとか、コーちゃんなんて呼ぶ場合が多いので、鈴木や杉原なんて名前なのでしょうか」
「あんたは、その客を見たことはありますか?」
「もちろんあります。でも、殆んどは、ちらっと見た程度なんです。ごく普通のサラリーマンといった感じだったと思います」
「じゃあ、その男の顔をはっきりとは、見てないんだね」
「そうですねえ。そうそう、いっしょに来ていた、もう少し若い人が”先生”と呼んでいるのを、聞いたことがあります」
「先生かあ~、門脇と同じ議員仲間なのだろうか・・・」
 それからしばらく事情聴取は続いた。長尾はほとんど口を挟まず、二人のやり取りを見守った。
「分かりました。今日のところはこれで引きあげることにします。あんたの同僚で、他に何か知っている人や新しいことを思い出す人がいるかもしれない。何か小耳に挟んだら、すぐにでも知らせてください」
 二人は丁寧に礼を述べて、エトワールをあとにした。
 中央署へ帰ると、いつもより雰囲気がザワザワしている。若い署員に何事かと尋ねると
「伊都ヶ浜の松林附近で、あの日の深夜に車が目撃されていたらしいですよ」
との、返事が返ってきた。
「香澄が殺されたのは、8月29日の深夜だったな」
「現場の先に小さな集落がありますが、そこに住む人が帰宅中に車から目撃したみたいですね」
 安川はそれだけを聞くと、長尾をうながして会議室へと入っていった。
 二人に気がついた谷口が近づき
「犯行現場の近くで、黒塗りのベンツが目撃されたようですよ」
 と、教えてくれた。
「ナンバーは見ていないそうですが、黒の同じ型のベンツを、村井建設の専務が乗り回しているのですよ」
「専務といえば、例の婿養子の・・・、なんと云ったかなあ、名前は」
「村井隆です」
「そうそう、村井隆の車を押さえて、トランクルームを調べりゃあ、髪の毛の何本かは出てくるだろう」
「まだ、令状を取るほどの物証は、何一つ無い段階ですからねえ」
 新しい疑惑のタネが次々に出てくる。つい数日前までは、皆目、糸口がつかめなかったジクソーパズルのたくさんの部品が、少しずつ埋まり、完成に近づく手ごたえを捜査員たちは、感じとって居た。
 しかし、肝心なところへ来て、次の有力な一手が、なかなか打てないもどかしさを感じるのもこの時期の特徴といえた。
 若い捜査員たちは、経験が浅いだけに、あせりに似た気持ちを抱き、ベテランの刑事は、これまでに経験したことを踏まえ、こんなときほど、悠然と構えて思考をめぐらせた。
 長尾と安川にも、まさに同じことがいえた。
 長尾は無意識に、朱美からの新しい情報や、目撃された乗用車と運転していたものへの捜査の包囲網が縮まり、自分達のヒゴタイ公園での目撃者探しが、遅れをとるのではないだろうかと、今からでも現地へ向かいたい、という気持ちを押さえるのに苦労するほどであった。
 その点、安川は悠然とした姿勢を崩さず、ノンビリとした様子で、明日出かける九州中央部の大きな地図を眺めている。
 長尾は、その様子を黙って恨めしげに眺めるのだった。