幻影の彼方(37)

 ふたりはメニューを見て同じものを頼み、料理が運ばれてくるのを待つ。
瑞希さん、僕はこちらへ来て市内以外に、いろんな所へ出かけました。九州には素敵なところがたくさんありますねえ」
「忙しそうなのに、そんなにいろんな所へ出かけられたのですか?羨ましいなあ」
「いつか、瑞希さんとふたりで行ってみたいところも、見つかりましたよ」
「ええ?そうなんですか。是非、連れて行ってくださいね。私、長尾さんとならどこへでも行ってみたいなあ」
 瑞希の積極的な願望が、長尾が思ってもみない方向へ発展しそうなので、彼は思わず口をつぐむ。
「ふたりで行きたい所って、どこなのですか?教えて欲しいなあ」
 無口になった長尾の次の言葉が待てないように、瑞希はしゃべった。
「今は、僕が忙しすぎて、すぐには実現は無理です。事件が解決して時間の都合がつくようになれば、必ず教えます。それまで待っていてください」
 長尾はそれだけを云うのが精一杯であった。
 その苦しい長尾の胸中を察したのか
「私、待ちます。そんな日がきっと来てくれると思います。そのときは、絶対に教えてくださいね。そして、私を連れて行ってくださいね」
 瑞希は潤みがちになったとび色の瞳を、長尾の方に向けて小指を差し出した。
 約束の指切りを催促してきたのだ。
 長尾は誰かに見られてないかと、どぎまぎしながら瑞希の白い小指に、自分の小指を絡ませた。
 そこへ注文していた料理が運ばれてくる。ふたりはあわてて指を放し、顔を見合わせて照れ笑いをする。
 それは瑞希にとっても、長尾にとっても、この事件が起ってからの初めてといえる幸せな瞬間だったといえる。
 楽しい時間は、あっという間に過ぎる。食事を終えたふたりは、次の再開を約束して別れた。
 
 署へ帰ると、安川が待っていて
ヒゴタイ公園には、明日出かけることになった。今日は予定通り、2時ごろエトワールの朱美に会って話を聞くことにしょう」
「わかりました。僕は昼食にありつけましたが、警部補はまだなんでしょう。済ませてきてください」
「そうだな、それじゃあ、署で待っていてくれ。そうだ、久賀管理官が長谷部君も同行させろと、云っておられた。彼が帰ってきたら、その旨を伝えておいてくれ」
 それから、安川と入れ替わるように長谷部はすぐに帰ってきた。鑑識からの結果を伝えると、顔色を変えて
「長尾さん、やりましたねえ。殺しの現場が判ればきっと何人かの目撃者が現れますよ。解決にかなり近づいたと言えるんじゃないでしょうか」
「いや、それはまだ早い気がします。ウラ取りの聞き込みがうまくいかないと、手放しでは喜べませんよ」
 長尾はあくまで慎重な態度を崩さないで、長谷部の話を聞くことに専念した。
 長谷部と長尾の会話を聞いていた、他の署員たちも寄って来て、にわかに会議室は熱気に包まれた。
「でも、人の姿がまるで無いあの公園で、目撃者を捜すのは大変だと思います。人影の無い公園だということがわかっていたからこそ、犯人はあそこを選んで門脇をおびき寄せたに違いありません」
 長尾が意見を述べると、賑やかだった部屋の中は、途端に静まり返った。
 誰かが
「長尾くんの云うとおりだが、途方もなく広い大地の中から、決定的な証拠を見つけたのだから、目撃者もきっと見つかるさ」
 この意見に後押しされたのか、再び明るさが部屋の中に充満する。
 長尾はそんな雰囲気の中で、たった今別れた瑞希のことを頭に浮かべた。
・・・あの素晴らしい景色の中で、瑞希とふたりだけで将来などを語れたら、こんな良いことはない。でも、父親が生命を絶たれた場所だと、瑞希が知ればどんなことになるのだろうか・・・
 なんてことが次々に浮かぶ。
 瑞希の端正な顔が、涙で濡れるのを見るのは、長尾にとって耐えられぬことであった。
 そんな想いをめぐらせていると、目の前に安川警部補が立っていた。