幻影の彼方(35)

 安川と長尾が中央署へ顔を出すと、若い刑事が
「安川警部補、昨夜、朱美から連絡があり、安川さんにお話したいことがあるとのことでした」
「そうか、何かを思い出してくれたのかな。それで、朱美はいつなら都合が良いと云ってた?」
「午後2時ごろなら、ということでした。場所はエトワールの近くで、と」
「わかった、それまで俺は、サブに会って確かめたいことがある。これから奉天へ出かけるが、お前さんもいっしょに行くかい?」
 安川は、長尾が高原の方へ出かけていたときは、中央署の刑事と行動を共にしていたはずだが、サブへの事情聴取には、長尾と出かけたい様子であった。
 奉天は開店前で、若い従業員が忙しそうに掃除用具を持って、店の前を行き来している。
 そのうちの一人が、安川の顔を覚えていて、すぐにサブを呼んできてくれた。
「その後、おかしな奴は現れないかい。中央署の方でもお前さんの身辺には、相当注意を払っているつもりだが・・・」
「ありがとうございます。あれ以来、俺の周りには怪しい連中は付きまとわなくなりました。香澄ちゃんは可愛そうなことになりましたねえ」
「今日は、お前さんに少し尋ねたいことがあってな。この店先では都合が悪いだろう。喫茶店にでも入って話そうか」
 3人は、サブが行きつけだという小さな喫茶店へと場所を変えた。ドアを開けると、香ばしいコーヒーの香りが漂ってくる。
 安川は、瑞希が届けてきたメモのコピーを見せて
「この中に書かれた名前で、お前さんが知っている人物が居るのじゃないかと、思ってねえ」
「ええ、居ますよ。はじめの二人は、村井建設のお偉いさんでしょう」
 サブは、村井幸次郎と婿養子の専務の名前を押さえながら、応える。しかし、この二人については名前程度で、それ以上の詳しいことは知らないらしい。
「この二人は我々で、調べることができる。問題は残りの3人だ」
「この3番目と4番目の安藤と竹内というのは、うちの店にも良く顔を出していましたよ。前は、福都の建設会社で働いていました。安藤はそのころ、現場監督をして、作業員を手荒く使っていたはずです」
「竹内というのは、どんな男だい?」
「この人は、安藤の腰ぎんちゃくみたいなものですよ。いつも、安藤について周り、こまごまと動き回っていたようです」
「今はこの二人は、どうしているか知らないか?」
「たしか、福都の会社で、安藤が不始末を起こしクビになった後、筑川町の建設会社に再就職したはずです。これは、又聞きですがね」
「お前さんが知っているのは、そのくらいなのかい?もう少し詳しい情報を握っていると思って出かけてきたのだがねえ」
「これ以上は、知りませんよ。ただ、筑川町の建設会社では、とても世話になって頭の上がらない人が居るとは、聞きましたがね」
「その頭の上がらない人物の名前は、知らないのかい?」
「そこまでは知りません。俺の懇意にしている奴で、情報通のが居ますから、そいつにそれとなく探りを入れてみましょう」
「そうだな、わかり次第知らせてくれ。ところで、この5人目の人物だが、字がかすれて読みづらい。お前さんは、どう読むかな」
「かなりかすれていますねえ。大田かなあ」
「そんな人物に心当たりは無いかい?」
「これは、わかりませんねえ。誰と関係があるのかも判らないのでしょう。見当がつきませんよ」
 安川は、今日のサブから聞きだせることは、これぐらいだな、と、見切りをつけて経ちあがった。
「それじゃあ、何か新しいことを掴んだら、すぐに連絡してくれよ。それから、身辺には当分の間、気をつけることだ。我々も目を光らせておくつもりだ。この事件が片付くまでは、油断は禁物だからな」
 そういい残し、安川と長尾は中央署へ戻ることを決め、サブを解放した。
 中央署へ帰ると、昨日、タバコの吸殻を預けた鑑識員が、紅潮した顔で長尾に近づいてきた。
「ヒットしましたよ、長尾さん。あのうちの2本から、かなり鮮明な被害者の指紋が検出できました」
 それを聞いた長尾は、興奮を隠しきれず、安川に
「警部補、門脇の殺害された現場が、特定されるかもしれません」
「本当か。それが事実なら、昨日の捜査で、凄いお土産を持って帰ったことになるぞ」
 安川は続けて
「すぐに久賀警視のところへ報告に行こう。鑑識さんもいっしょに来てくれ」
 安川は勇んで長尾をうながした。長尾はいっしょに出かけた長谷部も誘いたかったが、外へでかけているらしい。
「はい、承知しました」
 二人は、鑑識員をともない久賀管理官の部屋をノックした。