幻影の彼方(34)

 メモには5人の名前が書かれている。5人目の名前は、はじめの字がかすれてほとんど読めない。あとの字はなんとか”田”というように読める。おそらく書いた者が、かなりあわてて書きなぐったためであろう。
 あとに”田”が付く苗字を、みんなが口々にあげる。
 上田、大田、本田、桑田と、次々に上がった名前から、大田または本田ではないかという意見が多く出た。
 かすれた字体をよく見ると、たしかに大田とか、本田と読むのが一番無理が無いように思える。
 結局、大田或いは本田という苗字で、村井建設やその関係者、門脇との交際範囲などに手を広げ調べていくことになった。
 再び、谷口が
「とくにこのメモの2番目に書かれた男、村井隆というのは、社長の婿養子で専務の地位にあるそうなのですが、この男は粗暴で強引な上司だと、社員の間ではあまり評判は良くありません」
 この発言で、思い当たる捜査員たちが何人か居て、同調する意見を次々にあげる。
 筑川町から福都市にかけて、村井隆の行状の悪さが、相当に広まっているのだろう。
 中には
「叩けば埃の出る男、別件で引っ張って締め上げたらどうでしょう」
 などと、強硬な発言をする捜査員も出る始末。
 そうした意見をなだめるように
「そうなると、門脇が村井建設に対する疑惑の証拠を、エトワールのホステスである香澄を通じて掴み、強請りにかけた。その結果、殺害されたという筋書きを考えることができるな」
 久賀警視の意見に、皆がうなずく。
 そこで谷口が
「それで、このメモにある4人の8月22日の午後のアリバイを調べたのですが、全員に完璧なアリバイがありました」
「同じ企業の連中だと、口裏を合わせりゃあ、いくらでもアリバイ工作はできるぞ」
「4人については、口裏合わせを計算した上で、調べました。例えば、村井専務の場合その日は、東京からの客を、ハウステンボスに招待していました。社長の村井幸次郎は、県議会の副議長と会っています。これらは社外の人間の証言ですから、口裏合わせをしたとは思われないのです」
「例えば、ハウステンボスの従業員などに、8月22日に村井隆が来ていたかを確認したのかい?」
「いいえ、そこまでは、まだ、やっておりません。この会議が終わった後、すぐに詳しく聴き取りをおこないます」
 門脇がどこの誰に殺されたのかが、事件後2週間も経つのにまるで見当がついていない。そのことから、村井建設という具体的な名前が浮上したことは、捜査員たちを奮い立たせる効果は多分にあったものと思われた。
 しかし、久賀の意見はともかくとして、疑惑のメモの人物たちに、これ見よがしのアリバイがあるという事実は、捜査員たちの気持ちを落ち込ませる要因にもなった。
 そんなムードの中で、安川が
「門脇の事件と香澄の殺害が、連動していることは間違いないと思われますので、香澄が殺された日のアリバイも、調べる必要があります。それはどこまで進んでいるのでしょうか」
「安川警部補の意見は、もっともだ。明日は、香澄が殺された26日を中心に、彼らのアリバイを、さらに徹底して調べてくれ」
 久賀管理官は。大きな声で檄を飛ばすように、捜査員たちに話しかけた。
 
 次の日の朝、長尾は久しぶりに瑞希に連絡をとった。
 電話に出た瑞希の弾んだ声に、長尾は、耳元で素敵な音楽を聴いている気分になった。
「こちらに来られていたのですね。お仕事に差し支えたらと思い、私からの連絡はひかえておりました・・・、嬉しい」
「いい訳したくないけど、お父さんの事件を解決するために、誰もが頑張っているので、瑞希さんに連絡するのを躊躇していました」
「長尾さんに会いたいなあ。今日のご都合はどうなんですか?」
「今日は、福都市内での行動になると思います。お昼ご飯でもいっしょに出来たらなあと、思っています」
「わあ、嬉しい。それではお昼ごろ電話していいですか?」
「僕たちの行動は、どこでどうなるか、予測が出来ません。連絡は僕の方からしましょう」
「それでは、長尾さんからの連絡を待っています。きっと、連絡してくださいね」
 殺伐とした事件ばかりを追いかける刑事の仕事に対し、瑞希との、ひと時を過ごすことを想像する長尾の心は、先月から続く疲労を吹き飛ばすには、充分の妙薬であった。
 若い長尾には、瑞希との心の深まりが、事件を解決することによって、どのように揺れ動くことになるかを、想像することができなかった。
 気持ちが事件のことからはなれたとき、いつも心に瑞希が居ることを自覚することが多くなってゆく長尾刑事であったのだ。