幻影の彼方(31)

 近くを見渡すと、あちこちにヒゴタイを見つけることが出来る。この時期は花も終わりに近いのであろう。大粒の花は萎れたり、形がいびつになっている。
「ここが現場とは考えられませんねえ。この時間はいつも観光客がこんなに多いのでしょう?」
「そうですね。それに、ここは自然保護区で、監視員の目もありますから、ここでの殺しは先ず無理ですね」
 続けて
「場所を変えましょう。私が気になるのは、ここから車で5分ばかりのところにです。かなりヒゴタイが自生していて、人はあまり来ません」
 車は、コンクリートの橋を渡り、緩やかな下り坂が続く曲がりくねった道を走った。青少年の訓練施設のような建物を左に見て三叉路に出る。そこを左に曲がり、車は停車した。
「この道の両側には、ヒゴタイが自生しています。日中でも人影は殆んど見ることができません」
 長谷部の後ろから歩いてゆくと
”ここは国立公園内です。自生している植物を採ると、罰せられます”
 と、書かれた小さな看板が道脇に並ぶように立てられている。
 その看板のすぐ下に生えているヒゴタイは、無残にも花の部分が鋭利な刃物で切り取られている。
 二人は、入念に草むらをかき分けて、手がかりを捜し始めた。
 草むらには、人が立ち入った跡が何箇所もあった。その先には決まって、はさみか何かで切り取られた、ヒゴタイの無残な姿が目に入る。しかし、人間が倒れ込んだような跡を見つけることは出来なかった。
「事件が起きてから、2週間ぐらい経っているので、痕跡を探すのは難しいのでしょうかねえ」
 長谷部が長尾の方を振り向いてつぶやく
「ここで、殺されていたとしたら、草むらは、もっと荒らされているように思えます。多分、ここではないのでしょうね」
 長尾は庄原から出かけて捜査に当たった、同僚のご苦労を噛み締めながら言葉を返した。
 二人は、それでも数百メートルに及ぶ道路沿いを、丁寧に探索し続けた。やがて、ヒゴタイの姿が見えなくなった、ススキの繁る場所まで移動していることに気がつき
「ここは、あきらめましょうか。ここから数十分かかりますが、「ヒゴタイ公園」というところへ移動してみましょう」
 二人は長者原へ引き返し、レストハウスで休憩をとりながら、昼食を済ませる。
 その後、二人は「やまなみハイウエイ」と名づけられた、一般道を移動して熊本方面へと向かう。この道は温泉で有名な別府市から熊本市へ続く、観光道路で、昭和38年に開通した。春から秋にかけて多くの観光客が行き来する九州中央部の大動脈である。
 九州の屋根と称される、九重連山への登山口が道路の何箇所かに点在し、四季をを通じてたくさんの登山愛好家が押し寄せる。
 車は、九州で一番高い峠である牧ノ戸峠を下り、熊本県へと入った。
 やがて、広大な草原が姿をあらわし、”瀬の本高原”と書かれた標識が視界にはいる。5分進んだところで”ヒゴタイ公園”の看板が見えた。車はそこを左折して、狭く曲がりくねった道路へと入ってゆく。
 最後のカーブを曲がると、道が開け、広い駐車場に車は止められた。舗装の隙間から雑草が顔を出し、他に停めてある車は一台もない。
 車のドアを開けながら、長谷部が
「ここが、ヒゴタイ公園です。早朝や夕方になれば写真の愛好家が、花々の撮影に訪れます。でも、今の時期は花が終わりやってく人は、殆んどいません」
 車を降りて辺りを見回すが、長谷部の言うとおり、人影を見ることはできない。
 二人は、駐車場の向かいに立つ受付の建物をめざした。来園者が出入りするゲートと切符売り場みたいな場所があるが、ここでも人は居ない。
 ゲートのそばに
”ただいま、入園無料期間です。ご自由にお入りください”との張り紙がしてある。どうやら、ヒゴタイなどのメインの花が最盛期のときだけ、入場料をいただき後は自由に公園内を散策してくださいという、システムのようである。
 ゲートをくぐり、公園内に入ると、展望が開け、素晴らしい景色のパノラマが二人を歓迎してくれた。
 長尾が感動して
「わあ!凄い景色ですねえ。九州山地のスケールの大きさに、圧倒されます」
 公園はこのあたりが一番高く、見渡せる先はなだらかな下り坂が続き、あちらこちらに名も知らぬいろんな花が植えられている。
 ヒゴタイは花の盛りを過ぎ、これまで観てきたところと変わりがなかったが、気の早いコスモスがところどころに花弁を広げ、風に揺れて愛らしさを競っている。
 下ってゆく道の向こうに、あずまや風の建物が見える。
 二人はその建物を目指して、舗装された道を下り始めた。