幻影の彼方(28)

 やがて、長尾の胸から、はなれた瑞希
「すみません。取り乱しちゃって。でも、長尾さんて、優しいんですね」
 長尾は黙ってポケットからハンカチを取り出し、瑞希の目の前に差し出した。
「ありがとうございます。私、庄原へ来て良かった・・・」
「気持ちが落ち着いたら、署の方へ帰りましょうか。お腹も空いたでしょう?」
 二人が帰ると、安川が待ち構えていて
「君たちは、昼飯はまだなんだろう?いっしょに済ませようや」
「私は川口警部に挨拶してからにします」
「先ずは腹ごしらえだ。川さんへの挨拶は俺が代行してやったから、飯の後で顔を出せば大丈夫だよ」
「何から何までありがとうございます。警部補に感謝で一杯です」
「よせよ、お前さんは他人行儀だよなあ」
 二人のやり取りを観ていた瑞希が、こらえ切れないように、クスクス笑い声を立てた。
「やあ、笑顔が出たねえ。これで安心だ。きっと、事件は解決しますから、気を落とさずにね」
 安川の励ましに、またしても泣きそうになる瑞希であったが、何とか泣かずに済ませ二人の後に従った。
 行きつけのレストランで食事を注文した後
「例のアザミに似た植物の自生地、市場君の方も九州行きの連中も、空振りに終わったらしいぞ」
 安川は、神石高原町方面を意気込んで捜査した市場警部補のグループと、大分県の方に出かけた二人の探索が、不発に終わったことを長尾に伝えた。
「神石町の方は論外だが、大分、熊本の捜査は、福都署の方々の手を借りて、ということになるかも知れねえな」
 話の途中で、注文した食事がテーブルに並ぶ。長尾は、目の前の定食を見て、途端に空腹感が身体中を駆け巡る。安川の言葉を耳で受けながら、一番に箸を差し出した。
 安川と瑞希がその仕草を、笑いをこらえて見つめる。
 食事が進みだした頃合を見て安川が
「そうだ、瑞希ちゃん。あなたはこれからどうします?お帰りになるなら、広島に出て新幹線を利用するのが一番ですよ」
「そうですね。父の遺棄されたところへは、花束も手向けることができましたし、ここでの用事は済みました。これから福都へ帰ろうと思います。また、福都で会って
くださいますよね」
 瑞希は、食事の手を休め、下を向いたまま、つぶやくように応える。
「我々は、明日にでも福都市へ出かけることになるでしょう。そのときは、時間を都合して会ったらいいよなあ、長尾くん。今日のところは、お母さんも心配しながら、あなたが無事帰るのを待っているでしょう。午後の新幹線に乗るのが良いと思います」
「いろいろと親切にしていただいて、ありがとうございました」
「たしか、この後、広島県警に出向くのがいたと思います。そいつに広島駅まで送らせましょう」
 長尾は、このまま瑞希を一人で帰すのが、心残りでならなかったが、当然ながら他に良い方法は無い。
 黙って目の前の料理を口に運んだ。
 
 食事の後、署へ帰り、安川が言ってたとおり広島県警に出向く刑事に、広島駅まで送るように言いつけ、瑞希は福都市へと帰っていった。
 窓を開けて手を振る瑞希の目に光るものが見える。それに気づいた長尾は、千切れるように両手を振り回した。
 瑞希を乗せた車は、右折して二人の視界から消えていった。
「警部補、いろいろご配慮ありがとうございました。福都市行きの疲れが吹っ飛びました」
 安川は口元をゆるめて
「あの瑞希って娘(こ)、いい娘だよなあ。気丈に振舞っていたが、あっちへ帰ると悲しさに打ちのめされるかもなあ」
「たしかに、いい娘です」
 長尾は、瑞希が自分の胸に顔をうずめて泣きじゃくったことは黙っていた。長尾の心にも瑞希と別れた寂しさが忍び寄ろうとしていた。
 そんな長尾の気持ちを打ち砕くように
「さあ、これから捜査会議だ。そのあと3回目の福都行きが待っている。今度は長くなりそうだぞ」
 安川の張り切った声に、長尾は現実に引き戻される思いで、庄原署の玄関をくぐった。