幻影の彼方(20)

   サブの災難
 
 今年の夏は、最高気温が35度を上回る猛暑日が何日もあり、この暑さは9月に入っても、すぐには治まらないだろうと、気象庁は長期予報で伝えていた。
 その点、標高の高い中国山地の附近で暮す人々にとっては、猛烈な暑さとは無縁の生活が楽しめる。もうすぐ50歳を迎えようとしている安川にとっては、残暑の厳しさをまともに受ける福都市での捜査活動は、かなり堪えているはずであるが、犯罪に立ち向かう安川の口からは、そんな愚痴めいた言葉は一言もでてこない。
 そんな上司の姿を見て、長尾はますます見えない犯人へ少しでも近づこうと、気持ちを高ぶらせるのだった。
 8月31日の朝、安川と長尾は再び福都市を目指した。今回は、広島県警の本部長から、福岡県警本部と福都中央署へ、前もって詳しい事情と捜査協力の依頼が伝えられていた。
 市場警部補たちの、神石高原町方面の聞き込みは、安川たちが予想したように、有力な情報は何一つ出ないままであった。
 門脇が、神石町や福山市で目撃された痕跡はゼロであった。 
 安川は念のため、門脇の家に電話して福山方面に出かけたことがあるかなどを問い合わせたが、君子ははっきりと否定した。
 市場はそれでも、方針を変えずに神石町が殺しの現場だと、こだわり続ける。
 川口警部は、そんな市場の意固地とも思える態度に業を煮やし、ヒゴタイの自生地が点在するという大分県熊本県での捜査の人選を進めた。
 その結果、永瀬巡査部長と本田刑事が選ばれ、別の便で長尾たちと一日遅れで九州へと出発した。
 長尾たちは、福都市へ到着すると、直接中央署へ出向いた。広島県警本部長の挨拶が効いたのか、署長以下署員たちが前に来たときより、一層丁寧な姿勢で二人を迎えてくれた。
 早速谷口刑事がやって来て
「やあ、たびたびご苦労さまです。こちらもあれからサブの動向に目を光らせていますが、今のところ、特に目立った行動はしていません」
「谷口さんには、お骨折りいただき大変感謝しております。今回もよろしくお願いします」
「早速、サブを訪ねてみましょうか。彼はこの時間は店に居るはずです」
「いや、少し様子をお聞きした上で、彼に会ってどう責めるかを検討しましょう。サブに会うのはその後でということでいかがですか」
 3人は、別室を借りて打ち合わせに入った。
「サブの口が重いのは、どんな理由からなのでしょうかねえ。締め上げるとかなりいろいろ聞けそうな気がするのですが・・・」
 若い長尾は、このままでは、サブがすすんで口を開くことは無いだろうとの想いから性急な取調べを提案する。
「まあ、待てよ長尾君。ああいった連中は、こちらが弱みを掴んで責めるのが一番効果的だ。谷口さんの話を聞いて、その糸口がつかめないか、検討していこう」
 ベテラン刑事の安川は、長尾の性急さを押さえるような口調で、谷口の方へ顔を向けた。
「門脇が殺されてからのサブは、何かに怯えたような振る舞いが目立ちます。深夜近くに仕事を終えて帰るときなど、店の周りを盛んに気にしますし、車に乗り込むときもキョロキョロあたりを見回してからというように、以前は無かった態度が目に付きます」
 これまで、サブの行動に注目していた谷口からの報告は、とくに目新しいことがあったわけではなかったが、長尾たち二人は熱心に耳を傾けた。
 そのとき、谷口に若い刑事が近づき
「谷長さん、サブが暴漢に襲われ、救急車で病院へ搬送されたそうです。今、連絡が入りました」
「なに、サブのそばには、誰もついていなかったのか。搬送された病院はどこだ。すぐに出かけるぞ」
 安川と長尾は、顔を見合わせて席を立った。