幻影の彼方(9)

 それぞれの部署へ帰ろうとする捜査員たちの間を縫うように、長尾が警部補の安川に追いつき、
「安川さん、これは遺体のズボンの折り返しから見つかった、アザミの葉なのですが、鑑識の班長さんが、死体を遺棄する途中で現場のアザミがズボンについたのだろうと、捨てようとしたものです。もしやと思い、私がもらい受けたのですが・・・」
と、ビニール袋に入れた、アザミらしい葉の断片を安川の目の前にかざした。
 安川は
「多分、鑑識さんの言うとおりだろう。しかし、お前さんが気になるのなら、科捜研で調べてもらうのもいいかもな。ただし、科捜研が納得するような理由を準備することを忘れずにな」
 安川のその言葉に
「はい、そうします」
 長尾は元気のいい返事を返した。
 新進気鋭の刑事と云っても差し支えない長尾誠二は、高校を卒業後、広島県警の採用試験に合格し、警察学校を卒業した後巡査を拝命。広島市内の交番勤務が、彼の警察人生にスタートとなった。合間に勉強を重ね、25歳で巡査部長に昇進。同時に交番勤務から広島中央署の刑事課へ配属された。
 若手の刑事として、張り切った警察署の勤務を始めたのだが、経験不足はいかんともしがたく、先輩刑事たちの後塵を拝するだけの日々が続いた。
 そして、3年が過ぎ、今年、庄原署への配属となったのだ。
 28歳になる現在の長尾にとっては、初めての活躍のチャンスが訪れたような気持ちになり、、ベテラン刑事たちが死体遺棄事件としてあまり士気が上がらない様子に比べ、かなり高揚した気分になっていた。
 次の日、鑑識からの報告と、司法解剖の結果が出て、2回目の捜査会議となった。
 鑑識からの報告によると、遺体の外傷はなし、毒物を飲まされて殺され、その後、遺棄された可能性が高いと言うことであった。
 捜査員の一人が手をあげて
「自殺の線は考えられないのですか?」
 出席者の誰もが思うことを質問した。
「ああ、そのことの可能性は極めて低いものと考えられます」
 鑑識班の班長である佐藤が説明を始める。
「遺体の近くに落ちていた缶ビールの空き缶から、”ガイ者”の指紋が発見されました。ところが発見されたのはガイ者の指紋だけなのです。ふつうに考えれば流通過程で不特定の人々の指紋が検出されて当然です。つまり、一度指紋はきれいに拭き取られ、ガイ者が死亡した直後に缶を握らされて付いた指紋だと思われます」
「多分、犯人の指紋を消すために、このようなことがおこなわれたのでしょう」
 安川警部補がすかさず
「やはり、殺しの線が濃厚になったとうことだな」
 それまで冷静に説明に耳を傾けていた捜査員の間から、”殺しの可能性が高い”という一声で、どよめきに似た言葉にならない声が会議室へ広がった。
 続いて佐藤は
「遺棄された時間は、夜露が降りて草むらが濡れ始める午後8時ころより後、おそらく人目につきにくい深夜から午前3時ごろまでに、遺棄されたものと推量されます」
と、遺棄された時間にふれた。
 解剖の結果、胃の残留物には、カレーライスの一部が見出され、消化の状態から食後2~3時間が経過したところで、毒物を飲まされた飲まされたのではないか。
 毒物は、植物に含まれるアルカロイド系のもので、飲んで何分か経過してから身体が痺れ、意識が遠のき死に至ったものと報告された。
 被害者が死亡したのは、8月22日の午後2時から4時ごろであったろうとの所見であった。
 会議を取り仕切る川口警部が
「8月下旬から、40代半ばから50歳ぐらいの男性の行方不明者で、該当するものが居ないか、広域捜査で調べることにする。どこの誰が殺されたのかが判明すれば、捜査は一挙に進展するものと思われます」
「次に、遺体の発見現場およびその近くでの、聞き込みの報告をお願いします」
 昨日の捜査会議のあと、現場近くで聞き込みに当たった捜査員たちからの報告がおこなわれたが、この時点では、これといった報告はなされなかった。