幻影の彼方(8)

 庄原市は、人口4万人弱の中国山地に広がる自然豊な地方都市である。合併により全国で9番目という面積をもつ自治体になったが、その広大なエリアの治安を受け持つのが、庄原警察署である。
 その庄原署で、早速、捜査会議が開かれた。
 会議をリードするのは、庄原署刑事課長である川口正和警部。署長の近藤警視も出席して、所轄だけの捜査会議となった。
 先ず、川口警部から
「このたびの事案は、どこで遺体となったのか。殺しなのか、自殺なのか、現時点では決めかねるところがあります。身元もまだ判明しておりません」
「死亡の原因、時期など、鑑識および司法解剖の結果が出ないことには、動けない状態ではありますが、その点を念頭に皆さんの意見を聞いて会議を進めたいと思います」
 最初に現場へ駆けつけた、安川警部補が
「遺留品が無いと言うことは、他殺の可能性が濃厚だという結論になると思いますが、遺体のそばで見つかった缶ビールに毒が仕込まれていたとすると、自殺の線も無視できませんねえ」
 すかさず、他の署員から
「遺体のポケットにも、近くにも、遺書らしきものはありませんでしたが・・・」
「自殺するとき、必ず遺書を準備するとはかぎらねえぞ」
 じろりと、安川ににらまれた若い署員は、押し黙る。
 署長の近藤が、すかさず
「本格的な会議は鑑識の結果が出てからだが、今日は気がついたことは何でも意見を交わして、捜査方針を絞り込んでゆきたい。どんどん意見を出してください」
と、会議が沈滞ムードになることを恐れ、フォローする。
 安川と現場にいち早く駆けつけた長尾刑事が
「第一発見者の菊川さんは、毎朝7時前後に野菜の収穫に飼い犬を連れてやって来ていると云いました。異常に気がついたのは飼い犬らしいですが、昨日は、犬の様子におかしなところは無かったそうです。となると、あそこで自殺したか、殺されたか、或いは遺棄されたにしても、昨夜から今朝早くまでということになりますね」
「昨日の日中ということは、考えられないかね」
と、川口警部。
 長尾は少し緊張しながら
「はい、遺体の正面、つまり地面に接していた部分も、遺体の下の草むらも夜露で湿っておりました。日中に遺体になってあの状態ならば、地面に接した部分には夜露はついていないはずです」
 標高の高い三次盆地から連なるこの辺りは、8月下旬ともなると日中と朝晩の寒暖差が大きくなり、草むらは夜露でしっぽりと濡れる。
 出席している捜査員のほとんどが、長尾の意見を最もだと肯定してうなずきあった。
 安川警部補が口を開き
「目下、はっきりしていることは、死体遺棄事件だということです。あの発見現場で、殺しがあったとは思えません」
「やっさんの意見の根拠は?」
と、川口。
 この二人は、広島県警本部でながいこと、コンビを組んだ旧知の仲で、捜査会議のような場でも、”安さん、川さん”と呼び合う仲であった。
 安川は、階級が一つ上の川口に対しての礼儀は忘れず
「あの現場で殺しがあったと思えないのは、私の勘であります」
 集まった捜査員達は、今朝の張り切った様子とは裏腹に、死体遺棄事件だと聞いただけで、気持ちのボルテージがしぼみ、会議の熱気が冷めていくのを感じ取った。
 追い討ちをかけるように、署長の近藤が
「たとえ殺しだとはっきりしても、被害者は何処の誰なのか。どこで殺されたのか。どのようにしてやられたのかなど、不明な点が多い。現時点ではどうにもならないということだな」
 そんなムード打ち消すように
「鑑識および司法解剖の結果が出たら、広域をかけて行方不明者、事件がらみの情報など、問い合わせ先を広げよう。その後で2回目の会議を開く。みんなそのつもりで、現場周辺を中心に聞き込みをかけてくれ」
 川口刑事課長の言葉で、最初の捜査会議は終了した。