日本の戦争責任を追及する「朝日新聞」の戦争責任⑥


 
いまだ戦争責任をとらず

 その徹底した紙面は見事というほかないが、朝日と覇を争って軍国報道に血道を上げた毎日新聞が、終戦直後に社長以下、有力幹部が責任をとって続続辞任したのに比べ、朝日は、社主の村山派と反村山派の権力抗争が繰り広げられ、実に3カ月を経た11月に両派が退陣するまで、すべてがあいまいにされたのである。

 稲垣氏(前出)がいう。

「前述したように、その末に出された『国民と共に立たん』という宣言さえ、軍部に責任を転嫁したものに過ぎませんでした。そればかりか朝日は戦後今度はGHQに擦り寄り、持ち上げ記事を掲載するようになり、事前に是非読んでくれと、GHQに掲載前に記事を持っていくことまでしたことが、米の公文書に記されています。
 要するに朝日は戦時中は軍部に擦り寄り、戦後はGHQ、そしてやがては中国やソ連という共産勢力に擦り寄って、時代時代に表れる強い相手を礼賛する報道を続けるのです。
 変わり身の早さと、強いものにはとことんすり寄るその姿勢は戦前から一切変わっていませんね」

 元日経新聞社でコラムニストの井尻千男(かずお)氏(拓殖大学日本文化研究所長)もいう。

「戦後の朝日にとっては、結局GHQ大本営であり、占領期が終わって以降は、中国が大本営になったんです。朝日はセンチメンタリズムというか感情論だから、GHQや中国のいうことを聞いている方が大衆受けすると思ったんだろうね。やがて北京政府や韓国政府の言いなりになり、反日自虐史観を前面に押し出すようになるんです。そして、少しでも日本の政府要人が北京政府の気に障ることを言おうものなら、すぐにご注進して問題化するという”ご注進ジャーナリズム”を作り上げた。

 自ら戦争を煽り、礼賛した朝日は日本の近代史を断罪する資格などないはずなのに、GHQや中国に擦り寄ることによってこれを断罪する側に回ったのです。

 その無定見さ、臆面もない大衆迎合ぶりは見事というしかありません」

 さて、朝日新聞の言い分も聞こう。

朝日新聞は、自らの戦争責任を明確にするため、社長以下の役員、編集幹部が退陣し、1945年11月7日の1面に宣言『国民と共に立たん』を掲載して、国民の側に立った新聞社になることを誓い、以来それに沿った新聞づくりを進めてきました。戦前の小紙の振る舞いについては、ひとことで総括できるものではありませんが、戦後50年に当たる1995年の2月以降に連載した、自らの戦争責任をはじめ、折々に、検証記事を載せています」(広報室)

 それらが姑息なすり替えに過ぎなかったことは前述の通りだ。戦後、日本人としての誇りや気概を失わせることにひたすら邁進していきた朝日新聞のこれが正体である。
                    終わり
                   
                        (週刊新潮 02,8,29号より引用)

 とても古い週刊誌の切りぬきを見つけたことから、長々と引用を続けてきたが、朝日の体質が数十年を経た今でも、少しも変わらない。

 その時の強いものへ擦り寄り、ひたすら自国及び国民を貶める。
このことは、再度触れるが、慰安婦問題でのインチキ報道や福島原発事故で、何度も示された。

 それでも、国民の中には、朝日こそ”良識の新聞”だとか、朝日がこう主張しているから間違いない、などの声を聞く。
 私が最も恐れるのは、中学生や高校生を指導する立場にある教師たちの間で、朝日は相変らず”バイブル的役目”をしているという現実だ。

 子供たちがいう。
「今日のクラスの朝礼で、先生が、今朝の天声人語には…」などと、朝日の記事をネタにした話が行われる、教室の風景を想像すると、真っ白なキャンバスが、どんどん脅威たちの思惑で塗り固められ、偏った先入観を持つ生徒が出来上がる。

 もう、何年も前のことであるが、私のところに通う高校生が、私に
「先生、天皇は国民の敵なのですか?」と、質問してきたことがある。
訳を聞くと、
「学校で先生が言ってました」

 今ではこのような話が出ることは無くなったが、日教組の勢いが強かった時代には、こうして汚染は子供たちの間で始まっていたともいえる。
 そのネタ元に、朝日新聞という全国紙の存在があるのだ。

 大変古い記事を持ちだして恐縮だが、本質が何ら変わっていない朝日を糾弾するためには、忘れかけた真実をに思いをはせていただくことも意味あることかなと考える次第である。