礼儀を教えるのは「異様」なのか?


産経ニュースの
[解答乱麻] 礼儀を教えるのは「異様」か 前川喜平氏の「異様」発言は検定制度の否定ではないか  武蔵野大教授・貝塚茂樹

 という記事が、掲載されている。
最近の前川氏の政府攻撃は、道徳とは無縁の氏の座右の銘面従腹背”を言葉通りに実行しょうとしているとしか思えない。
 こんな男が、たとえ一時ではあっても、我が国の文部行政の事務方トップにいたとはと、考えると背筋が寒くなる。

 この記事の一部を引用させていただき、私の気持ちを付け加えたい。

         引用開始

 何が「異様」なのか皆目わからない。前文部科学事務次官前川喜平氏が、自らの著書や講演でこの4月から全国の小学校で使用されている教育出版の道徳教科書の「異様さ」が「群を抜いている」と批判を繰り返している。具体的には2年生の教科書で挨拶の仕方をイラストで例示し、「つぎのうち、れいぎ正しいあいさつはどのあいさつでしょうか」としてるのがいけないようだ。
 教科書の監修者の一人として反論したい。

 教科書では、1「おはようございます」といいながらおじぎをする。
         2「おはようございます」といったあとでおじぎをする。
         3おじぎのあと「おはようございます」という、
の3つの選択肢が用意されている。
 前川氏は、「正解は2だというのだが、いったい誰がどこで決めたのだろう」と述べ、このような選択肢を設けることは「正しい」ことを一方的に教え込む「教化」であり、「悪しき正解主義の中でも最悪の部類に属する」というのだ。

 しかし、ここで問題としているのは、3つのうち、最も適切な挨拶について問うているのであって、それ自体の「正解」を問題にしているわけではない。
「礼儀正しい挨拶」を体験的に学ぶことが主眼であり、「悪しき正解主義」という批判とはポイントがずれている。

「学習指導要領解説」(以下、解説)は、低学年で学ぶ礼儀の内容について、「時と場に応じた挨拶や言葉遣い、作法や動作があることに気付き、気持ちよく感じる体験を繰り返し行うことで、しっかりと身につけることができるようにすることが求められる」と記述している。
 前川氏が「異様」とする教材は、学習指導要領の求める内容に忠実に沿っただけである。

  解説は、礼儀を「心と形が一体となって現れる」ものであり、具体的にそれは挨拶や言葉遣い、所作や動作など作法として表現されるが、それは、「人間関係を豊かにして社会生活を円滑に営めるようにするために作りだされた文化の一つである」と明確に説明する。
 文化である以上、「いったい誰がどこで決めたのだ」という批判は当たらない。礼儀とは、人間関係や社会生活の秩序を維持するために社会一般が常識的に承認している守るべき行動様式と言う以外にないからである。

 では、その行動様式に照らして、「礼儀正しい挨拶」が、なぜ2と言えるのか。
簡単である。
「語先後礼」が一般的には礼儀・マナーの望ましい基本だからだ。
 それは解説でも、低学年の学びに連続する高学年では、「自ら挨拶をしてお辞儀するなど、適切な言動ができるようにすることが求められている」とされていることからも明らかである。
 付け加えれば、このことは明治後期に文部省が刊行した「小学校作法教授要綱」以来の基本である。

 まさか、前川氏が「語先後礼」という礼儀・マナーの基本を知らないとは思わないが、知らないとすればお粗末であり、知った上での批判であれば不可解この上ない。

 しかし、何より不可解なのは、かっての文部行政のトップが検定に合格した教科書に公然と批判していることだ。これは、教科書検定制度を否定することになるのではないか。しかも、前川氏は、道徳の教科化に責任のあるポストにあった人である。

 前川氏の座右の銘は「面従腹背」だそうだ。それについてどうこう言う積りはない。ただ、私には「面従腹背」という言葉が。およそ道徳とは無縁であるとしか思えない。強いて言えば前川氏による批判の「異様」さは、「群を抜いている」。

  貝塚茂樹 国立教育政策研究官などを経て現職、専門は日本教育史、道徳教育論など。

            引用終わり

 私の想いは、記事の著者である貝塚先生が、全てを述べられておられる。
私の駄文を追加する必要はない。と、引用するなかでそんな想いに達した。
 ただ、最後に付け加えたいことは、このような異様な人物が、国家百年の大計に関わる文部行政のトップにあったこと。

 今もって、テレビなどのマスコミを通じて、文部行政の破壊、子どもたちの健全な育成の邪魔を堂々とおこなっていること。それに反日のマスコミや、元ゆとり教育を推進して、子どもたちの学力をガタガタにした寺脇某などが、援護していることなど、国民が気付き、糾弾しなければならない要件が山積されている。

 こいつらが、大きな顔をしてテレビで語ることに、大衆が疑問をもつような世の中が来なければ、教育界はまともにはならない。
 日教祖、や反日のマスメディア、そして、この国賊どもの一掃された社会が到来することを、ひたすら願っている。