我が国で使われる”リベラル”とは?
岩田 温と言う30代半ばの学者が
と題する一文を産経ニュースで見た。今回の選挙でマスコミが良く使っている「リベラル」と言う言葉を私は、少し違和感を感じながら耳にしていた。
それが、岩田氏のこの文章が、私の頭の中を覆っていて、もやもやの霧を吹き払ってくれた。
毎回の引用で恐縮だが、以下に書かせていただくことにした。
自民党が、保守政党であることは周知のとおりだ。希望の党は、自らの政党の理念を「社会の分断を包摂する、寛容な改革保守政党を目指す」としている。安全保障政策において非現実的な主張を繰り返した民進党左派を「排除」し、保守政党の覚悟を示してもいる。
問題は、立憲民主党である。
枝野氏は自分自身が「保守」「リベラル保守」であるとの主張をかねてより繰り返しているのだ。
私自身も、リベラルな保守主義者を自任しているので、「リベラル」と「保守」が必ずしも対立する概念ではないーという枝野氏の論理を歓迎している。「多数者の専制」に陥りがちな民主主義社会の中で、少数者、弱者の声に耳を傾けるというリベラルな姿勢、社会の中の多様性を擁護するリベラルな姿勢は、政治家にとっては重要だ。
こうしたリベラルな姿勢と、わが国の伝統や文化に対して敬意を抱くという保守的な姿勢とは、必然的に対立するものではない。枝野氏が抽象的に「リベラル保守」について語るとき、私はそれほど違和感を覚えない。
だが、日本では「リベラル」とは、特別な意味で語られることが多い。これが厄介だ。「憲法9条を守っていれば平和が維持できる」「集団的自衛権の行使容認で徴兵制がやってくる」といった、非現実的な「平和主義」を信奉する人々を「リベラル」と呼ぶことが多い。
こういう人々は本来「保守」でも「リベラル」でもない。愚かなだけである。
日本列島に生き残る「ガラパゴス左翼」と呼ぶべき勢力なのだ。彼らの特徴は極端に非現実的な主張であり、盲目的に憲法9条に拝跪(はいき=ひざまずいておがむこと)する様は、一種の宗教的儀式を連想させるものだ。
政党が「保守」と唱えるのは結構だが、今の日本に本当に必要なのは「ガラパゴス左翼」と決別した真っ当な意味でのリベラルだ。安全保障政策において現実主義の立場に立ち、共産党とは一線を画した上で、国内政策においては弱者の立場に立つ。
「リベラル」との言葉が、ほとんど「愚かしさ」と同義語になってしまっているのは、日本国民にとって極めて不幸なことだと思わざるを得ない。
引用おわり
いつの間にか”リベラル”という言葉が、マスコミなどで左派的な思想、考え方に対して用いられ「あの人はリベラル系の政治家だから」なんて左派の人のことをさすようになった。
私は本来リベラルと言うことでは、自由な発想、自由な考え方を持ち、柔軟な姿勢でことにあたる人のことを、”リベラル派”と呼ぶのではないかと、思っていた。
だからリベラルは、良い意味の響きを私に伝えていたのだが、いつの間にか左派の人の多くをさす言葉に変わったようだ。
だから、左派嫌いの私には、この言葉を使われると、いつも苦々しさが付きまとうようになったのだ。
立憲民主から立候補している、過去の国会で「総理、総理!」とがなり立てた女性の候補などを、リベラルと呼ぶのに、大きな違和感を感じていた。
しかし、上の論文で岩田氏は、「ガラパゴス左翼」と喝破してくれて、胸のつかえが吹き飛んだ。
今の日本には、まさに宗教の妄信的な信者が、何の疑問も持たずにのめり込み憲法9条が平和を守ると、お題目を唱える。このような現象が戦後72年にわたり、我が国の歴史に足跡を残してきた。
この人たちの特徴は、目の前の現実は見ようとしないで、ただ、平和憲法があるから日本は守られていると、がなり立てる。
このような現実が、すぐ近くで起こっている中で、まだ9条が平和を守るというのだろうか。
このような「ガラパゴス左翼病」は、左派の政治家だけでなく、マスコミや学者の間に広がり、何も知らない一般大衆を巻き込んでいる。
今回の立憲民主の人気が一部で高まっているのも、こう言った風潮に大きな影響を受けているとしか言いようがない。
しかし、前原代表が民進党は、希望の党に合流しましょうと、民進党大会で発言したときには、満場一致で賛成したではないか。それが小池しの全員入れる考えはないとの一言で、自分は入れないなと諦めて立ち上げたのが、立憲民主党だ。
それを筋を通したとか、信念は曲げなかったなどの賛美の声が、いつの間にか大きくなり、立憲民主の人気向上に役立っている。
まだまだ、書き足らないのだが、このへんで・・・。