終戦の思い出
8月15日がやってきた。
昭和20年のこの日は、あと数日で4歳の誕生日を迎える私にとっては、何の印象もなかった。
幼い子どもの心は、自分の国が勝とうが負けようが関心ごとではなく、とにかく空っぽになったお腹をどうして満たそうかとの、思いで一杯だったのだろう。
そのころ家族と共に台湾に居た私の父は、どうやって家族全員を無事に日本へ引き揚げて行ったらよいかに頭を悩ませたことだろう。
運よく和歌山の田辺港に貨物船で帰り着き、数日かけて大分の我が家へと全員が無事にたどり着いた。
敗戦で無茶苦茶になった日本国土。幸い我が故郷は国東半島の山の中にあったため、空襲の被害もなく一家が雨風を凌ぐことだけはできた。
しかし、生きるために一番の”食い物”をどのように調達したら良いのか、父母や兄はこのことで頭を痛めたことだろう。
家族が栄養失調にもならず、成長できたのは本当に幸いだったと思う。
残念なのは父、母、兄もみんな鬼籍へ入っていることか。
ただし、父母は生きておればとうの昔に100歳を超えておるので。これはぜいたくな願望だ。
現在の日本人は長く続く平和な暮らしの中で、有り余るほどの食べ物、移動のための車、買い物ではちょっとした町ならスーパーなどで、金さえあれば楽に調達できる。
年老いた私は、今のこの平和な暮らし、便利な生活が末永く続くように願うばかりだ。
我が国では、平和憲法があれば日本は現状を続けていけると、錯覚している人が多いのだが、”備えあって憂いなし”だ。
どこの国も手出しできないような、国防の備えは絶対必要だ。
国家間のいさかいも”イジメ”の問題と共通点が多い。
苛める卑怯な連中は、自分より強い相手と分かっておれば、絶対に手出しをしてこない。自分より弱そうで強力に抵抗してきそうにない相手を集中攻撃する。
国と国でも似たことが言える。
何だか終戦の思い出から外れてきた。今回はこのあたりで・・・。