ゲン爺と野ウサギ(2)

 ボクたちは、ホタルちゃんがママの体温くらいに、牛乳を温めてくれ、スポイドで、ていねいに飲ませてくれるので、すっかりお乳の代わりの牛乳に慣れて行きました。
 ある日のこと、ホタルちゃんがボクたちが暮らすバスケットの中で、変なものを見つけました
「お父さん、ちょっと来てえ」
「何だね、何かあったのか?」
「ほら、これ見て。この黒いツブツブは何なの?」 
 ゲン爺は指差されたところをじっと見ています。
 実は、ボクたちには、それが何であるか、わかっていたのですが、ふたりに教えることができません。
 黒いツブツブは、直径が2ミリくらいの丸い薬のようなもので、バスケットのあちこちに散らばっていました。
 観察を終えたゲン爺が言いました。
「これは、ピーちゃんとリンちゃんのウンチみたいだよ。まだ、身体が小さいので、ウンチも小さいのだ。大きくなれば、直径が1センチくらいのコロコロしたのが出てくるだろう」
 ゲン爺は
「そろそろ。り乳食(りにゅうしょく)を与えるかな」
 そう言って、外へ出かけて行きました。
やがて、5~6枚のタンポポの葉を持ってきて。ボクたちの鼻先(はなさき)へ置いてくれました。
 葉の切り口から、白い汁が少し出ていて、ボクには何だかなつかしい香りがします。
 ボクは恐る恐る、その葉をかじりました。
「おいしい!」
「たしか、ママが大好きで良く食べては、その後でボクたちにお乳を飲ませてくれていたよ。リンちゃんも食べてごらん。とてもおいしいよ」
 タンポポはウサギの大好物の食べ物で、ゲン爺はそのことを知っていたので、家の周りに生えているタンポポを採ってきてくれたのです。
 
 そばで、おいしそうに食べるボクの様子を見て、リンちゃんもかじりつきました。
「お兄ちゃん、おいしいね。これ、ママが大好きだったの覚えているわ」
 ママのことを思い出して、今にも泣き出しそうになりながら、リンちゃんもむしゃむしゃと葉っぱを食べて行きます。
「この分だと、どんどん大きくなって、野原に放せる日が早くなるかもしれないな」
 ゲン爺は、ボクたちがタンポポを食べる様子に目を細め、ホタルちゃんと喜び合いました。
 そして、次の土曜日がやってきました。
ゲン爺とホタルちゃんは、週末になると飯田高原へ出かけます。
ホタルちゃんがやってきて、かごを開け
「今日は、1週間ぶりでお山に行くのよ。あなたたちもいっしょに出かけましょうね」
 お山というのは、ボクたちが生まれた郷がある、飯田高原のことです。
ボクもリンちゃんも
「やったあ!お山に帰れるんだ」
 本当はまだ、小さすぎて野原では生活できないはずなのに、お山で自由になれるとかん違いして、ボクたちはウキウキした気分になりました。
 
 お山にはお昼過ぎに着きました。
車のドアが開き、ゲン爺の家に入ろうとしたとき、ボクたちはなつかしいにおいに、気がつきました。
 ママのにおいです。
 だれも居なくなった郷へ、ボクたちをさがしてママが来たのかも知れない。
ボクたちは、人間の何倍も、においをかぎ分ける能力があります。
ママは人間が近くに居ると、警戒(けいかい)して近寄ろうとしなかったのだけれど、普通の日は郷に人が居なくなるので、一生懸命にボクたちを探し回ったのかも知れない。
 ボクはそんなママのことを思うと、涙(なみだ)が止まらなくなりました。
となりでは、リンちゃんも同じことを考えていたのか、大粒の涙で顔がくしゃくしゃになっています。
 悲しいことに、人間のゲン爺やホタルちゃんには、このことが分かりません。
 
 そのまま、バスケットを他の荷物といっしょに、部屋の中へ運び入れました。
土曜や日曜日は、郷には小さな子どももやってきます。
やがて、その人たちが郷にやってきて。ゲン爺の家へと走って来ました。
「子ウサギが居るのでしょう。見せてえ~。わあ~、可愛い!」
 歓声(かんせい)をあげながら、ボクたちをさわったり、抱っこしたりして大騒ぎです。
 でもボクたちは、飼いウサギではないので、人間が悪さをしないか、怖くて怖くて、ゲン爺やホタルちゃん以外の人には、安心する気持ちには、なれないのです。
 
 そのことが分かっているゲン爺は
「野ウサギは、夜行性(やこうせい)の動物だから、これからお昼寝の時間だよ。そろそろ寝かせてあげようね」
 と言って、家の2階へボクたちを運んでくれました。
その後、本当に眠くなりボクたちは、バスケットの中で目を閉じました。
外では子どもたちの元気な声が、郷にひびき渡っています。
 
 郷でボクたちは、原っぱに放してもらえるものと、思っていたのですがゲン爺は
「今、放すと、キツネやノラ猫のエジキになってしまう。もう少し大きく育て体力がついたら、自然に返そう」
と、沈み込むボクたちの気持ちに気付かないまま、日曜日の夕方には街の家にボクたちを連れて帰りました。
 家に着くと、また、体重測定です。
「ほう、どちらも200グラムを超えたぞ。この調子でモリモリと餌を食べて欲しいな」
 
 ゲン爺は、郷で刈り取ったタンポポの葉を、かごに入れてくれました。たくさん採ってきたので、残りは痛まぬようにバケツに水をためて、タンポポの葉をその中に入れておきます。こうすると、水をときどきかえるだけで、いつまでも新鮮(しんせん)な葉が食べられるのです。
 
 ゲン爺とホタルちゃんは、一泊以上の留守をするときは、必ず、ボクたちもいっしょに連れていってくれます。
 福岡のホテルに一泊の予定で、野球見物に出かけたときも、ボクたちを連れて行ってくれました。
 ただし、野球場にはたくさんの人が集まるので、ボクたちはホテルでお留守番です。
 ホテルのフロントを通るとき、ボクたちはイヌのように鳴き声をたてないので、バスケットにいれたままチェックインを済ませ、部屋へ入ることができます。
 部屋の浴室は、バスタブの横に広いシャワー室があり、ホタルちゃんが
「ほら、ここは広いから、かけっこもできるよ。私たちはこれから野球を見てくるからその間、良い子でいてね」
と言って、持ってきたタンポポの葉といっしょに、ボクたちをシャワー室に放してくれました。
 狭いバスケットの中とは違い、窮屈(きゅうくつ)さはありません。ボクとリンちゃんは、走り回ったり、タンポポを食べたりして、疲れると眠ってしまいました。
 
 旅行が終わり家に帰ると、ゲン爺とホタルちゃんは
「もう、狭いバスケットに閉じ込めておくのは、可哀そうだね。これから運動ができるような広さの犬用のケージを買いに行こう」
 こうして、ボクたちは家の中に置かれた大きなケージで、生活をするようになりました。
 
 ゲン爺やホタルちゃんと暮らし始めて25日が過ぎました。
ボクたちの体重は、250グラムを超え運動量も増えてきました。
広いはずの犬用のケージも狭く感じられ始め、最近のボクは広い野原を駆け回る夢ばかりを見ます。
 ボクたち野ウサギの行動範囲は一晩で2キロを走るほどなのです。
野原を自由に走り回り、餌を探したり新しい仲間を見つけたりしながら、一人前になって行くのです。
 
 ある日、リンちゃんの様子がおかしいので
「どうしたの?どこか、具合でも悪いの?」
ボクは心配になり、リンちゃんにたずねました。
「この頃、ママの夢ばかり見るの。ママに会いたいわ。お兄ちゃん、もう、ママには会えないのかねえ」」
 ママのことを言うリンちゃんの目には、もう、涙があふれています。
 この時、ボクはリンちゃんの異変に気付きました。
リンちゃんの前足の付け根あたりの毛が抜け落ちて、肌がむき出しになっていたのです。
 ボクはびっくりして
「リンちゃん、ここの毛が抜け落ちているけど、どうしたの?」
リンちゃんは返事ができずに困った顔をしています。
 いつもと違うボクたちの様子に気がついたホタルちゃんが
「お父さん、ちょっと来てえ。リンのここを見てよ」
 ホタルちゃんは、ゲン爺に毛が抜けているリンちゃんの肩ぐちのあたりを指差しました。
 ゲン爺はしばらく毛が抜けたところに手を当てて、考え込んでいましたが
「これは、多分、自こう症という病気だな。野ウサギはストレスがたまると、無意識に自分の身体を痛めつけるらしいのだ。ほっておくと重症化するはずだ」
 ゲン爺は奥の部屋から本を持ってきて、ホタルちゃんに説明をしました。
「そろそろ、野に放してやらねばいけないということだな」
 
 次の土曜日がやって来ました。
いつものように、バスケットに入れられ、ボクたちは車に乗り込みました。
梅雨に入ったせいか、郷には人影が無く静まりかえっています。
ゲン爺もホタルちゃんも、口を閉じたままモクモクと車から荷物をおろしています。
 そのとき、また、あのなつかしいにおいがしてきました。
「あっ!ママのにおい。きっと、この近くにママが来ているのよ」
リンちゃんが興奮(こうふん)した声で叫びます。
 ボクとリンちゃんは、ゲン爺とホタルちゃんが気がついてくれないかと、祈りました。
でも、ママは人間を怖がります。気が付かない方が良いのかも知れない。ボクは短い時間にあれこれ考えを巡らせ(めぐらせ)ました。
 何も気がついていない様子のホタルちゃんが
 
「これで、お別れよ。今まで楽しい毎日をたくさんプレゼントしてくれて、ありがとうね」
 涙声でボクたちに話しかけます。
ゲン爺は、口を閉じて何も言いません。
「どこで、放そうか。安全なところが良いのだけれど」
 ホタルちゃんの問いかけに、ゲン爺はようやく口を開きました。
「生まれた場所で放そうよ。あれから草も伸びたし、うまくいくと大きくなって会えるかもしれない。郷に人が来ていたらまずいけど、今日は誰も居ないし…」
 ゲン爺とホタルちゃんの意見がまとまり、ボクたちはゲン爺にひろわれた場所に連れていかれました。
 バスケットのふたを開けながらホタルちゃんが
「野原を駆け回り、ごちそうをたくさん食べて大きくなるのよ。ときどきは、私たちのところに遊びにきてね」
 ホタルちゃんの眼からあふれ出た大粒の涙が、ボクたちの頭に降りかかります。
ゲン爺が、バスケットを横にたおします。
 
 
 ボクたちはいつでも野原に飛び出せるのに、どうしたことか足が動きません。
次の瞬間、ゲン爺がボクをホタルちゃんがリンちゃんを両手で抱いて、目の前の草むらに置いてくれました。
 
 ボクもリンちゃんも、ゲン爺とホタルちゃんを2,3秒眺め(ながめ)てから、ゆっくりと草むらへ入っていきます。
 ボクたちが動くたび草むらがゆれます。
ゲン爺とホタルちゃんは、ボクたちが移動するたびに揺れる草の波をじっと眺めています。
 そのとき、これまで感じたことがない強さで、あの、ママのなつかしいにおいがしてきました。しかも、すぐ近くからです。
 このママのにおいにいち早く気がついたリンちゃんが
「ママーっ!」
大声でさけびながら。においの方へ走りはじめました。
 すぐ前(さき)の草むらに大きなウサギが、ボクたちが近づくのをじっと待っています。
ボクたちのママです。
 ボクも思わず足を速めて、ママのもとへと近づきました。
「まあ、元気でいてくれたのね。こんなに大きくなって」
「うん、ボクたち、ゲン爺とホタルちゃんに可愛がられて育てられたのだよ」
「ママは、この郷に人が来ていないとき、なんどもここへきてあなたたちを探したのよ。あなたたちの姿は見えなかったけど、においは時々していたから、ここで待っておれば、必ず会えると思ってたわ」
 
 ボクもリンちゃんもママに会えたことで、これまでの悲しさや寂しさは吹っ飛んでしまいました。
「さあ、あなたたちをこんなに大きくなるまで育ててくれた、ゲン爺さんとホタルさんへお礼を言いましょう。そして、これからは一緒に仲良く、くらしましょうね」
 ママは、ボクたちを連れて、ゲン爺とホタルちゃんの近くまで引き返しました。
ゲン爺とホタルちゃんに対して、ママはちっとも怖くないようです。
 
 ゲン爺とホタルちゃんは、目の前にママを真ん中に、ボクとリンがならん居る様子を見て、すべてがわかったようでした。
言葉が話せなくても、心は通じ合えたのです。
 ゲン爺が口を開きました
「親子でいつまでも達者でな。わしたちに会いたくなったらいつでも遊びにおいで」
 ゲン爺とホタルちゃんは、いつまでも手を振ってボクたち親子を見送ってくれるのでした。
                                  おしまい