メキシコは今!


 ホンジュラスからの難民が1万人単位でメキシコを北上。ついにアメリカとの国境の街、ティファナまで達した。

 トランプ政権は、多数の軍人を配置して、難民が国境を超えてアメリカ領土へ不法に侵入しないように、にらみを利かせている。

 マスコミはほとんどが、そうしたトランプ政権の出方に批判的だ。

 もちろん、避難民のホンジュラスの人々には、同情すべき点は多い。治安が悪化し、仕事も無い。政府は国民へより添う姿勢など微塵もない。
 自国を捨てて他国へ逃れるなど、普通の感覚ではあり得ないことだ。それをあえて行う民衆はそこまで追い詰められているからなのだろう。

 だが、目標の国はアメリカだと勝手に思われたアメリカ国民の気持ちはどうなのだろうか。

 日本を例にとると、私の結論は決まっている。
文化、習慣、ルール、宗教、言語などが違う人々が、日本を目指したと考えると到底安易な同情だけでは、さあ、いらっしゃいという気にはなれない。

 そして私には、国民はこうなるまで、政府の横暴にどうして声を上げなかったのか。という疑問が付きまとうのだ。
 中国などのように、選挙で国の代表が選ばれないのなら、暴動を起こすなどしか方法は無いのかもしれない。

 民衆が愚民化してしまえば、政府を構成する一部の権力者は、国民の弾圧や搾取を平気で行うだろう。それに歯止めをかけることができるのは民主的な社会の構築しかない。

 そこで問題になるのは、教育の力ではないのか。
”国家百年の大計”という言葉があるが、物心両面で豊かな国造りを行おうとすれば、その根幹に教育という柱が必要になる。

 日本では封建社会の武士が世の中を治めていた時代でも、藩校、寺子屋、私塾などが各地にあり、精神性の高い教育が行われていた。当時の文盲率の高さは世界でもトップクラスであったらしい。

 維新のあと、明治政府はいち早く「学制」を引いて青少年の教育の体制を固めた。これが、大東亜戦争に敗れ焦土と化した日本の短期間のでの復興に大きく役立ち、民主政治の大切さを国民が、それぞれに体感して言ったのではないか。

 つまり、教育こそは豊かな世の中をつくるための、最重要なシステムだといってよい。難民が発生する国での教育は、どれほどの重みをもっているのだろうか。

 中東にしても、中央アメリカにしても民衆の民主体制の大切さに、どれほどの意識が根付いていたのだろうか。

 マスコミなどの論調を見ていると、同情論や安っぽいヒューマニズムが先行して、アメリカ政府への疑問が取り沙汰されるのだが、果たしてそれで良い結果へとつながるのだろうか。