ただ、日付が変わるだけなのだが…。

 窓から見える空はどんより曇り、一度は目覚めかけた私であったが、再び目を閉じた。本当の目覚めを迎えて時計を見ると、8時半を示していた。
 慌てて床を抜け出し、ごそごそと動き回るうちようやく身体も目覚めてくれる。
 
 外は、時雨てか細い水の滴りが、気持ちをうっとおしくさせる。
 
 さて、1年があっとう間に過ぎ去ろうとしているが、振り返って見ても、何となくざわついて焦点を絞り切れない時が、ずんずんと冷酷に刻み続けられた。私にとってはそんな感じの1年であったようだ。
 
 明日は、新しい年を迎える。
だから、どうだ?と問われても、特別な感慨も想いもない。
 
  しばらく瞑目しながら、この一年を振り返ってみたが、平成に入ってからの数十年間、同じような環境で時が推移してきたようだ。
 これは一体どういうことなのか。自問自答を繰り返してみたが、答えは出ない。
 
 そして、はたと気が付いた。
そうだ、この数十年にわたって、この世がマスコミに汚染され続けたせいなのだ。
特に、テレビ放送は、年々お粗末になるばかりで、キャスターも登場するコメンテーターも劣化の一途たどる。
 
 製作費の軽減策かは知らないけど、どのチャンネルを選んでも”お笑い番組”ばかりで、出演者の軽薄な笑い声だけが耳に突き刺さる。
 
 新聞は、前にも何度も書いてきたが、”驕り”だけが目立ち、自分たちが事実を報道して、目を通す読者に判断をゆだねるといった姿勢が希薄になるばかりだ。
 
 酒井信彦氏の記事から、一部を引用させていただくと
10月に行われた新聞大会の決議で
「不確かでゆがめられた情報が拡散され、事実を軽視する風潮が広がっている。一方的で感情に訴える主張により、報道の信頼性をおとしめる動きもある。(中略)こうした時代にあってこそ、新聞は毅然とした姿勢を保ち、正確で公正な情報を提供しなければならない」
 
 そこで述べられているのは、ネットではフェイクニュースが蔓延しているのでメディアがそれを正さなければならない…という主張である。
 
 そして、酒井氏はこうも言う。
「日本の新聞に決定的に欠けているのは、自分自身がフェイクニュースの生産者だという事実を直視する誠実と勇気である」と。
 
 これまで、高校の歴史教科書での、「侵略」を「進出」に書き換えたという虚偽の報道。著者が作り話だと認めた慰安婦問題の報道。これ等は、新聞が火付け役になり、中国や韓国が、日本を攻める格好の資料として、それから執拗に使い始めた。
 
 そして、その誤りを新聞は認めて、国民に深く謝罪したのか。
 
 私は、我が国の新聞やテレビという、メディアの代表があやふやで、確たる裏付けも取れていない情報を、大衆に流す。
 ワイドショーなどでは、登場させたコメンテーターに、恣意的に自分たちの思惑通りにことが運ぶように発言させ、大衆の気持ちを誘導する。
 
 このようなことが、何十年も行われてきたことが、私にとって新年が改まろうが、そうでなかろうが、どうでも良いような想いの方を強くさせたといえる。
 
 それでも、来年こそは憲法改正への動きが、もっと具体的になるのではないか。
来年こそは、多くの日本人の気持ちが、国防の大切さに気がついていくのではないか、など、希望を持って迎えたいと思う。
 
 私の拙くて、面白くもない文章に目を通して下さった皆様、来年もよろしくお願いいたします。寒い中、お身体をご自愛くださいますように、良いお年を迎えてくださいませ。
 
                                     ゲンゴロウ