もう8月1日だ

 
 月日の経過の早さに今さら驚きながら8月1日を迎えた。

 今日は参議院議員の初登庁の日だ。
テレビで放送される「れいわ」のめでたく当選された二人の重度障害者の姿をマスコミはカメラで追い、何度もこのニュースを流した。

 今の世の中は、不遇の立場にある人に対する、普通の人々の対応にとても厳しくて、批判めいたことを口にしたり、素朴な疑問を投げかけるだけで、気の毒な人々に冷たいとか、逆に厳しいバッシングに合う。

 しかし、私は映像を見るたびに、山本太郎という人間はどんな説得をしたのか分からないが、介助者の介助なしにはほとんど何もできないお二人を国政の場へ引っ張り出す必要があったのか、疑問を持ってしまうのだ。

 身障者に優しい社会の構築は大切で必要なことだ。
私が物心ついたころからずいぶん世の中は進み、健常者の理解も進んだと、私は思っている。

 重度障害者の訪問介護を受けること、その費用の負担の在り方など為政者が考えなければならないことは山ほどあるだろう。

 だが、映像を見るたびに、このお二人はさらに大きな身体的負担を背負ってしまい、今後の健康にも深刻な影響が出るのではないか。などを考えてしまう。

 かく言う私も、身内に障害者がいて毎日のように片道30キロを車で行き来して
毎日の生活を支えている。
 障害者の叔母が暮らしているのは、有料の老人ホームだが、入所者は障害者や認知機能の衰えた人ばかりではない。90歳前後の健常な高齢者も多い。

 昨日訪問したとき、叔母の部屋は掃除中で談話スペースを設置したコーナーに叔母は車いすのまま我々の到着を待っていた。
 叔母と話しこんでいたら、隣の部屋にお住まいの95歳になる健常者の男性が、「私も話に加わらせてください」と、近寄ってきた。

 その方が言うには、いろんな人と話したい。毎日が寂しくてやりきれない。
ということだった。

 話の中で、いくら元気でも最後は私も障害者と同じ立場になる。年をとるということはそう言うことですよ。とう言葉が印象的だった。

 世間はともすると、目に見える障害を持つ人に同情的だが、他人の手を借りなければ生活に支障をきたす。そんな人々が世の中にはゴマンといる。しかし、見た目が元気そうだから気がつかない。

 ひと目見てわかる障害者だけでなく、そんな人々にも優しい世の中つくりを真剣に目指すのであれば、山本太郎の行いに少しは賛意が湧いてくると思うのだが、彼は社会にインパクトを与えるために障害者を利用すると言う魂胆しか見えてはこない。

 お二人が議員になったことで、寿命まで縮めなければ良いがと、いらぬ老婆心が頭をかすめた本日であった。